見出し画像

#39 ”教師が正解をもっている”という前提を捨てろ

小学校でも中学校でも「子どもが主体的に…」とか、「子どもの権利条約が…」と言う言葉が飛び交うようになってきた。この傾向はとても良いことだと思う。しかし、実際の改革はまだまだ進んでいない。その要因の1つに、”そもそも”が見直されていないことだとが考えられる。

どんなに決まりや校則を緩めても、「教師が正解を持っていて、それを子どもたちが取りに行く」という考え方を見直さなければ、子どもの主体性や”自由の相互承認の感度”は育たない。例えば、教育用に貸し出されたタブレット端末でゲームをやっている児童・生徒がいたとする。今までは「やめなさい!」といっていたのを「それはどうなんだろうね?」と考えさせたら良いという方向性で提案がなされた。確かに、「やめなさい」と一方的に指導するよりはよいのだろう。しかし、本質はそこではない。「それってどうなんだろうね」の裏に教師の「やめなさい」という意図があるのでは根本的に変わっていないのだ。もし、その問いを出すのであれば、「教室でゲームをやるのはいいのかどうか」ということについて、対等な人と人として子どもと向き合い、対話をする必要がある。

そもそもルールはだれかを縛り付けたり、コントロールするためのものではない。”お互いの自由を認め合い、できるだけ自由に生きていくため”に作り合うものだ。それを見失い、ただきまりを緩めたり、言い方を改めたりするだけでは、表面的で薄い改革で終わってしまう。もっと根本的に見直そう。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?