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16大哲学者を漫画でまとめる(4)

 長い西洋哲学史を手っ取り早く16大哲学者の4コマ漫画でまとめる本シリーズもついに完結編を迎えた。

 (1)はギリシャ哲学で1~4話、(2)が近代認識哲学で5~8話、前回(3)は近代行動哲学で9~12話、そして今回(4)は実存主義哲学で13~16話に当たる。

第13話 「単独者」 キルケゴール

 まずは“実存主義の祖”と呼ばれるデンマークの哲学者、セーレン・キルケゴールである。

 1コマ目のヘーゲルは前回見た通り、長い家庭教師生活から人生後半になってベルリン大学の学生運動鎮圧のため急きょ教授になり、最後は大学総長にも選ばれた、哲学者としては恵まれた人生を送ったと言える。結婚もし、ヘーゲル学派はヨーロッパ中を席巻した。

 一方、このキルケゴールはほぼ真逆で、生前は3コマ目の通り人々からボコボコに侮辱され、外も歩けないほどだった。プロポーズを受けた美しい女性はいたが、何故か自分から断ったことも叩かれるネタになった。

 しかし、4コマ目の通り死後は石碑が立つほど高く評価され、後に大哲学者が輩出する実存主義の祖と呼ばれた。

 この「単独者」という概念だが、第5話でデカルトが発見した「我思う。ゆえに我あり」の“考えるコギト”と似てなくもない。

 デカルトはアリストテレス哲学が陥った教条主義に対抗する理性として、キルケゴールはヘーゲル哲学の絶対精神に対抗する実存として、と位置づけることができる。

第14話 「能動的ニヒリズム」 ニーチェ

 キルケゴールの著作は死後、有志の手でデンマーク語からドイツ語に翻訳され、その訳者はニーチェを訪ねて「あなたの哲学と似た考え方の哲学者が私の国にいたのですが、どうです、読んでみませんか?」と勧めたが、特に読まれはしなかったという(世界の名著解説より)。

 確かに似ている。石碑に彫られている「私がそれのために生きたいイデ―(理想)を持て」と、2コマ目※の「自ら積極的に新しい仮象を生み出し、能動的に創造する生き方」。ほぼ同じ文である。サッカー少年も音楽家を目指す青年も少女漫画家になるべく描き続ける女の子も実存主義者と言える。

 ただ祖父も父も牧師だった家に生まれたニーチェは、少年時代から「小さな牧師さん」と呼ばれて自分も同じ道を歩むべきか悩んだ。時代は産業革命や市場経済など近代化が進んでいる。そんな中で伝統的なキリスト教の信者は、1コマ目の通りルサンチマン(強者への妬み)に満ちているように思われた。

 ニーチェというと、Twitterでも断片的な短文だけを抜いている人が多いけれども、文脈から離れて自分勝手な解釈をしがちだし、何より暗くなる文章が多い。しかし、ニーチェ理解の出発点をルサンチマンに置くと簡単に要旨が掴める。

 有名な“神は死んだ”、“力への意志”、“超人”を2コマ目に並べたが、いずれも妬んだ対象である近代の強者に当たる。当初はもっとフザけて「秘技!能動的ニヒリズム!」という吹き出しを加えて2コマ目を描く予定だったが、よく考えると、実は現代の誰でも自ら次々と仮象をつくっては古い友人と別れ、成長しているので秘技でも何でもなかった。

 こうしてたった2コマでニーチェ哲学が終わったので、残る3コマ目からこれも有名な「永劫回帰」の話に変えた。まずは発見した地であるスイスのシルス・マリアという地。キルケゴールはギーレライエで発見したので、どうも実存主義者は都会の喧騒から離れた田舎の景観のよい大自然の中で大発見をするのではないかと思われた。

 4コマ目と少しつながりが悪いのは承知だが、「ツァラトゥストラかく語りき」の中の名文なのでそのまま掲載、写真も「世界の名著(中央公論社)」の冒頭にある印象深いものだったので貼ることにした。

第15話  「世界内存在」 ハイデガー

 生前は評価されず、ほぼ孤独な死を迎えたキルケゴールやニーチェを、死後丹念に読んで高く評価した1人がハイデガーである。

 では「あなたは実存主義者ですか?」と聞かれると「否。私は存在を考える哲学者だ」と否定する。まるで一緒にするなという感じがする。

 1コマ目に晩年を過ごした山荘を持ってきたのは、世界の名著の訳者たちが実際に訪ねたことがあったからである。ただあいにくハイデガーは風邪気味で体調が悪く、短い時間で終わってしまった。その時の質問の中に「いまドイツの若手で有望な哲学者はいますか?」というものがあったが、即座に「いない!」と返答された。今考えても確かにいないのだ。結局哲学者は次に紹介するフランスのサルトルで完結する。

 その理由を考えると実は難しくない。実存主義で突っ走ったその終点が存在論だからである。存在論といえば、第1話のパルメニデス。そう、哲学史は一巡してしまったのだ。

 漢字の「子」の字が始まりを意味する「一」と、終わりを意味する「了」とが合わさって、円環する十二支の要である“ね”となるように、16大哲学も存在を要に円環を成す。

 もともとハイデガーはギリシャ哲学を研究していて、なぜデカルトやカントなど哲学者たちは人間ばかり研究して、そもそもギリシャ哲学が研究していた存在とは何かから離れたのだろう?と疑問に思い、存在論に立ち返ろうとしたという。

 そこから彼独特の用語、「現存在(※人間のこと)」や「世界内存在」が展開していくのだが、今回はとても4コマ漫画でカバーしきれないと思われた。そこで印象深かった言葉とエピソードで構成することにした。

第16話 「実存は本質に先立つ」 サルトル

 いよいよ最終話である。存在論を説いたハイデガーでなく、なぜハイデガー世代のサルトルで終わるのか?

 哲学の始祖タレスが「万物の根源(アルケー)は水である」と唱えて以来、哲学者たちは先に本質があって、それを探究し、本質から諸々が出てきたと考えてきたが、サルトルは逆転する。曰く、「実存は本質に先立つ」と。

 ハイデガーに言わせると「どっちが先なんてどうでもいい」らしく、存在がどう出来ていくかが大事だと。だから実存主義から存在論への過度期に当たる位置に立ち、明け開けや放下を考えた。

 一方、サルトルは生き方そのものが世界内存在の模範例であり、この漫画の通り成功したので完成者にふさわしい。

 1コマ目でノーベル賞、4コマ目で5万人が押し掛けた葬儀。

 キルケゴールは路上で倒れ、ニーチェは発狂し、ハイデガーはナチスとの関与を叩かれて山荘に引っ込んだ。サルトルも自分勝手さが禍いして人々に叩かれたところは他の実存主義者たちと同じだが、この結果を見ると大成功したと言える。

 もちろん、「嘔吐」や「存在と無」などの著作が優れて評価されたからこそノーベル文学賞に選出されたのだが、彼は選出しないでくれと手紙を出した。

 しかし、その手紙の到着が遅れたのか、スウェーデンアカデミーは知らずに発表、直後にサルトル辞退という形で大混乱に陥った。

 理由は2コマ目と3コマ目の通りだが、こうした彼の生き方、姿勢、あくまでも真理を追究し、善を追及し、政治を変えていこうと、そのためには右に寄り過ぎず、左にも寄り過ぎず、人々のためにアンガージュマン(社会参加)してきた結果が4コマ目となったのである。

 ノーベル賞の受賞は拒否したが、それ以上とも言える超最高の賞を与えられたと言える。


 



 

 

 

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