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私の原点

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NHKの取材者たちの「原点」はどこに?ルーツを語った記事のマガジンです。
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記事一覧

「スティーブ・ジョブズ1.0」の真実(後編)

ジョブズよ、なぜ、語ってくれていなかったのか・・・ ジョブズは、2011年に亡くなっている。私が取材してきた「新版画」とのつながりについて、本人が直接話したり、書き残したりしたものは見つかっていなかった。 「ジョブズが直接、新版画に言及しているカギカッコがないことが最大の弱点でしたね」 これは、英語番組を一緒に制作した同僚の言葉だった。マッキントッシュの開発チームのメンバーやアップル社の幹部でさえ、誰も知らない。そう思わざるをえないほど、新版画とジョブズとのつながりは極

「スティーブ・ジョブズ1.0」の真実(中編)

やりたいことがあっても、 壁にぶつかり、突き返されてしまう。 そんな悩みを抱えたことは、誰しも、一度や二度ではないと思う。 記者歴30年超の私もしかり。2015年から4年かけて調べていた、スティーブ・ジョブズと「新版画」との結びつきについて、アメリカ取材を目指して番組提案をするも、採用されなかった。 しかも、次なる機会をうかがっているうちに、世界はコロナ禍に突入。齢五十六。定年まであと3年半、もう残された時間は多くない。でも、あきらめてたまるもんですか。 前編はこち

「スティーブ・ジョブズ1.0」の真実(前編)

しかし、これは、 どう考えたって、変な組み合わせだ- 1984年1月24日。 スティーブ・ジョブズはステージの上にいた。 「これがあれば、なんでも思い通りに表現できる」 と、自信たっぷりに聴衆に訴えている。それは、アップル社が「マッキントッシュ」を世界にデビューさせた瞬間をうつした、過去の映像だった。 ただ、私の視線は、ジョブズではなく、マッキントッシュの画面に集中していた。そこに映っていたのは、1枚の絵。描かれていたのは、流れるような黒髪をくしでとかす妖艶な日本人

ロシアとロシア語を愛するあまりウクライナを避けようとしていた私が、現地の取材で見た戦争のリアル

ことし2月、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から1年がたったころ、私のスマホにメッセージが届いた。 彼女はウクライナ人。去年3月、私が隣国のモルドバでの取材中に知り合って、同世代ということもあって今もときどき近況を報告してくれる。 彼女と初めて会ったとき、私たちはロシア語で話していた。でも今は互いに英語しか使わない。 ウクライナでの取材中に目にした貼り紙が忘れられない。 学生時代に多くの時間をかけて学び、あれほど好きだったロシア語を使うのが、私は今でも少し怖い。

「幼稚園の地下シェルター」新人国際記者の私がウクライナで見た戦禍の国、日常のリアル

去年12月、国際部の提案会議に2本の取材提案を出した。 「ウクライナの兵士たちの心のケアの課題を探る」という提案と、もうひとつは私の前任地、福島県の子どもたちと、ウクライナの子どもたちとの手紙を通じた交流を取材するという内容だった。 取材提案を出したのはこれが初めて。 福島県から東京の国際部に異動して4か月あまり、国際情勢を3交代で24時間モニタリングする仕事にも慣れてきたが、海外の現場に行かずに情報だけで原稿を出し続けることに、何か違和感も抱くようになっていた。 だか

”朽ちたシーサー“みたい? 沖縄で取材を続けて28年の今、私だから語れること

「沖縄局に何年いるの?」 「秘密です!離島だから、東京の人事が気づいてないのかもw。このまま退職まで気づかれずにずっといられるといいんですが」 今まで出張で沖縄に来た人たちと、何度となく交わしてきた会話です。もはやそうした質問すら出ないほど、沖縄での勤務が長くなりました。 東京での3年間を除いて、沖縄勤務は通算28年。取材にも子育てにも、奮闘しながら何とか続けています。 メディアで働く若い人や記者志望の学生さんの中には、地方への転勤や、育児しながらの仕事に不安を感じてい

兄弟の消えない後悔

2011年3月11日。 その日、私は11回目の誕生日を迎えていました。 宮城県の内陸部の小学校5年生で、学校が終わったら焼いたスポンジケーキに母と一緒に生クリームを塗って、誕生日ケーキを作る予定でした。 でも、大きな揺れがあって、各地に被害が出て、もちろんケーキを食べるどころではありませんでした。 それ以来ずっと、誕生日の「おめでとう」に違和感をもつようになりました。 そんな私は記者になり、今年初めて取材者として震災と向き合うことになり、2人の兄弟を取材

「怖い、怖い、怖い…」熊本地震 あの夜、私はデスクと抱き合い絶叫した

「怖い、怖い、怖い…」 とっさに口をついて出た。熊本県益城町の道路上、時刻は午前0時を回っている。 車外に出ている最中、突き上げられるような激しい揺れ。その一瞬、電柱が歪んでいるように見えた。 「うわあああああ」 しゃがみこんで、デスクと抱き合った。 真っ暗闇の中で人工的な車の明かりだけが遠くに見える。 次の瞬間、握りしめていた携帯電話が振動し始める。 けたたましい緊急地震速報の音が、ずっと鳴り響いていた― 7年前の熊本地震で、私たちは震度7が襲った災害現場に

幼いころに通った教室が、12年前のあのことと私をもう一度つないでくれた

「石巻出身なの?震災は大丈夫だった?」 そう聞かれたときの私の決まり文句はこうだ。 「自宅は高台なので無事でした。両親の車が2台とも流されましたけど、たいしたことなかったです」 これでだいたい会話は終わる。それ以上言ってはいけない気がしていたから。 17年ぶりの再会「NHK仙台放送局でキャスターをしている、佐々木と申します。突然申し訳ありませんが…」 「もしかして成美ちゃん?」 電話をした先から聞こえてきたのは「アトリエ・コパン」という、宮城県の石巻市内で49年も続いて

「被災者の方からお話を聞かれていましたが、どう感じましたか?」と言われても・・・

「被災者の方からお話を聞かれていましたが、どう感じましたか」 大学生だった私に記者から繰り返し投げかけられた言葉です。 何と答えていいか分からず、どう答えたかもよく覚えていません。 大学1年生の時から、阪神・淡路大震災の追悼行事「1.17のつどい」にボランティアとして参加していた私。 毎年、取材で、同じような質問に何度も何度も答えるたびに・・・ 「私たちは何のためにやってるんだっけ…?」 もやもやした感覚を抱いていました。 そんな私は、今年、取材する立場として阪神

なんで私が“先生”に?記者が9人の生徒と歩んだ半年間には、伝えるためのヒントがつまっていた

私、佐藤翔は宮崎放送局の記者として、日々防災・減災の報道に取り組んでいた。 福島県出身で、取材の原点は地元での東日本大震災。防災報道に携わりたくて、NHKに入った。災害への備えを繰り返しニュースで伝えることで、被害を減らせると信じていた。 はずだった、はずだったのだが、、、 防災って、ちゃんと伝えるの難しくない・・・? 防災が大切だと言えば、否定する人はいない。 ことが起きれば、誰もが恐怖を抱く。 だけど、何も起きていないときに、考えてもらうにはどうしたらいいのだろ

「想定外」に抗え。あのとき無力だった19歳の私、いま一体何が伝えられるのだろうか

福島県・福島市出身で当時19歳だった私は、1年間通った予備校に最後のあいさつに行こうと、地元から隣の宮城県仙台市に向かっていた。 その途中、電車の中で感じた強い揺れ。 午後2時46分。 その後、何が起こっているのかもよく分からないまま、雪が舞う寒さの中をほかの乗客と一緒に近くの施設へと避難した。 その場所がどこだったのかすら記憶がない。私だけではなく、車で迎えに来てくれた父親もよく覚えていないというのだから、今考えるとかなりのパニック状態だったのだろう。 「想定外」

「知りたがりモンスター」の脳をパカッと開けて見てみたい…!元ゼミ生のディレクターたちが語る立花隆の教え

「ゾウの糞ってどれくらいでかいの?」 立花さんのことばで一番覚えているのは、これ。 当時、大学の農学部生だった私は研究室の関係で、上野動物園でゾウの糞を洗うというバイトをしていた。 確か野生のゾウが植物の種をどれだけ遠くまで運ぶかを検証するべく、ゾウが木の実を食べた後、何時間後に糞に種が出てくるかを調べるという研究だったような・・・それでゾウの糞に入っている種を見つけ出すため、糞をひたすらシャワーで洗い出すというバイトだった。 それを立花ゼミのブログに書いたら次に会っ

ガラケーしか使えないデジタル音痴だった私が「GISでデータ分析」できるようになるまでの話

みなさん「Ctrl+C」ってご存じですか? そう、「コピー」するときのショートカットキーですよね。 私は知りませんでした。ずっとマウスを「右クリック」して「コピー」してました。当然、ブラインドタッチなどまったくできませんでした。 周りがみんなスマホに切り替えるなかで、「使い慣れてるから」とずっとガラケーでした。そんな「極度のデジタル音痴」だったはずの私が書いた記事がこちらです。 東京の多摩川沿いの浸水リスクがある地域で、「なぜか人口が増えている」ことをデータ分析ソフト