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優しくない自分に幻滅した先に。

会社員だったころ。オフィスから駅までの道によく、やつれたおばあさんが1人で座っていた。正確にいうと、道ばたの商業施設にのぼる階段に。何をするでもなく、前を向いてぼーっと座っていた。

週に何度も見かけるので、ホームレスの方なのかな、と、ちらっと横目で気にしつつ、私は忙しく通り過ぎていた。

ある日の帰り道、そのおばあさんをすぐ近くの繁華街で見かけた。観光客や、サラリーマンなど、道行く人に歩き回ってお金を乞い、迷惑そうにあしらわれている。

…ああ、やっぱり困っているんだ。

相手にされていない姿に胸が痛み、1000円札を取り出して近づいた。

「あの、これどうぞ。」

勝手な話だけれど、私の経験上、おばあさんと呼ばれる年頃の女性に親切にすると、返ってくるのはいつも、優しい笑顔と「ありがとう」だった。


しかし、ありがとうの代わりに返ってきたのは、大きな声で


「もう一枚!!!」だった。


おばあさんの目はカッと見開き、こちらに身を乗り出し、人差し指を立てて1と主張している。

身の毛がよだってしまった。

私にとって、身の毛がよだつ、という言葉がここまでしっくりくる経験は、この時が初めてだと思う。

驚きを隠せず、「ごめんなさい」と断ると、

「ね!!!!もう一枚だけ!!」とすごい勢いで食い下がられたので、

半分逃げるようにその場を去った。

去る直前に、諦めた表情で
「ありがとうね」と言うのが聞こえたが、
胸がどきどきして、それどころではなかった。

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小学生の時、クラスで少し浮いている子が2人いた。いじめられているわけでも、無視されているわけでもなく、ただちょっと空気が読めなくて浮いていた。

私には今も連絡をとっている親友がクラスにいて、だいたいの子は同じように特定の仲良しがいたけれど、その2人には、特段仲の良いクラスメイトがいなかった。

1人でいる姿を見るとなんとなく気になって、彼女たちそれぞれに声をかけるようにしていた。

ある日、遠足だったか校外学習だったか、先生が「バスの席を決めるので一緒に座りたい人と、2人組を作ってください」と言った。

いま思うと「2人組を作ってください」ってなんて残酷な響きだろう。

私は当たり前のように、いつも2人で仲良くしている親友のところにいった。

バスでのお喋り楽しみだなぁ、お菓子何をもっていこうかなぁ…!!

と妄想を始める暇もなく、前述の2人のクラスメイトが「優里ちゃんと座りたい」とやってきた。

・・・あ、まずい。

問題は、その2人が、その子たち同士で仲が良いわけではないことだ。

私は、あなたたちよりも親友と2人で座りたい!とはっきり言えなかった。親友が「え、それなら別にしようか・・・」と言い出した。

ちょっと、離れないでよ…

泣きたくなった。

結局どうしたのかよく覚えていないのだけれど、モヤモヤした感情の記憶が残っていて、多分バスの最後列でみんなで座ったと思う。

本当は、親友と2人だけでお喋りしたかった。

その2人のクラスメイトは、私の本音に気づいていたのだろうか。

今住んでいるフランスのニースエリアでは、多くはないが路上生活者を見かける。

道端に座り、使い捨ての赤いプラスチックコップをもって、通行人をじっと見つめている。

観光客のようにみえるアジア人への視線はなおさら明白だ。私は目を合わせるのが怖くて、存在に気づいていないかのように足早に通り過ぎる。

そして、道端で寝ている人がいると、おいてあるコップにそっとコインを入れる。寝ている人なら、もっと!と言わないから。

ある日の夜、日本から遊びにきた友達と二人で、フランスのスーパーに行った。入り口前に、移民系の女性が赤ちゃんを抱えて座っていた。隣に2歳くらいの子供もいる。

子供を2人連れて、夜までこんなところにいるなんて大変だな。

スーパーに入っていく私たちを物欲しげな笑顔で見つめてくるので、軽く会釈をして、買い物のついでに水、ナッツ、フルーツなど身体に良くて日もちが良さそうなものを購入し、帰り際、友達と一緒に渡した。

渡したとたんに、表情が変わった。

さっきまでのうっすらした笑顔から、悲しげな表情になった。

「ありがとう。私は本当に大変なの。子供がいて、家がなくて。。。」

たどたどしくも、早口な英語で話し出す。

あ、始まった。と思った。

経験上これは、もっとお金をくれ、の流れだ。

私は少しずつ後ずさるが、友達は「うんうん、大変だよね」と頷いて、親切に話をきいている。

後ずさる私に気づくと、友達もその場を離れた。

そして、じゃあ、とその場をあとにした。

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本当は、ただ話を聴いてほしかっただけかもしれない。話を聴こうとする友達の優しさを目の当たりにして、冷たい自分に罪悪感をもった。

人は、話をきいてもらうだけでも癒されることを、身をもって知っている。

子供がいて身動きもとれず、どうすればいいのか途方にくれて、困っている。

社会からとりこぼされることは簡単で、つながりというセーフティーネットがなければ、誰でも転落できる。それは努力の問題ではないと思う。

同様に、親友に出会えることや、グループに馴染む器用さも持ち合わせていることも、努力の問題ではなくて、運だ。

頑張ればいい、という人もいるけれど、頑張ることすら難しい人がいると思う。

そう思うから、できることはしたい。

しかし、誰かを助けようとして自分の中で保っていたバランスが崩れ、ここまでです!と警報がなる瞬間がくる。

無視はしないけれど、本当の意味で寄り添う根気があるわけではない。

偽善という見方もあると思う。

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優しさの分配が円グラフなら
それは「自分」「大切な人」「他人」への3つで構成されているだろうか。

他人というのは、人だけでなく、動物や環境への配慮も含めた社会ともいえる。

自分20%、大切な人20%、他人60% 
の、志高い社会活動家や

自分80%、大切な人10%、他人10% 
の、一生懸命なビジネスマンや

自分10%、大切な人89%、他人1% 
の、家族に尽くすお母さん

が、いるかもしれない。

何を大切にしたいのかは人それぞれだから、ここに優劣はない。

私は、自分にとって心地よい「他人」つまり「利他」のパーセンテージを超えると、苦しくなる。

スピリチュアルな観点からみると、この3者は本当はすべて1つであり、境目はないという。そのように世界を見ることができるのかもしれない。

しかし、概念できれいなことが言えたとしても、実際にお金や時間をどこに費やしているだろうか?と考えたとき、今の私はその境地に達していない。

自分には自分だけの大切な領域があり、大切な人たちのために使いたい時間があり、社会にも貢献をしたい気持ちがある。

そしたらもう、円グラフの円自体を大きくして、それぞれの面積を広くするしかない。

円自体を大きくする方法。

現段階の私の考えでは、それは、自分にあったやり方を見つけて行動することだと思う。

社会貢献の種類はさまざまにある。

ある人は、エシカルファッションに取り組むが、お肉が大好きで辞めることはできないと言っていた。またある人は、ビーチクリーニングに取り組むが、物乞いにお金は渡さないと言っていた。

それでいいと思う。というか、あらゆる方向に完全な人を見たことがない。

大切な人に寄り添う方法も、自分に優しくする手段も同じく多様だ。

自分にあう方法で、できることを高めていく。

昔の私だったら、こんなnoteを書いて、冷たい人間だと思われるのが怖かった。でも最近は、自分の強みも弱みもよくわかるようになって、それを受け入れている。

冷たい部分も、温かい部分もあるけれど、器全体が少しずつ大きくなっていくと信じて。





ありがとうございます!