重村斗志乃利

長年大島紬の製造に携わってきましたが、現在は辞めています。 このままでは大島紬の製造方…

重村斗志乃利

長年大島紬の製造に携わってきましたが、現在は辞めています。 このままでは大島紬の製造方法が正式には伝わらず後々の人達が困ることを危惧しています。 そこで大島紬の理論的な面から講義していきます、読み続ければ大島紬の製造法が理解できるとかんがえます。

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大島紬糸目付計算書

大島紬における糸目付け計算書の理論づけ根拠  大島紬を製造するにあたり、その筬(おさ)密度の違いによる糸目付けの計算方法は確立されていません。ここに糸目付け計算式とそれらを使ったグラフを提示します。  現在作られている大島紬の種類は13算(よみ)、15.5算の二種類が大半を占めており、少数ですが18算の大島紬も作られています。かつて芭蕉布が作られていましたがその筬密度は概ね8算で織られていました。  大島紬は染色法により泥染め大島紬と色大島紬(白大島紬)に大別されます、泥

    • 大島紬糸量計算ソフト

      大島紬糸量計算ソフト(エクセル使用)

      有料
      2,000
      • 亀甲の織り方について

        亀甲柄の製造方法について 大島紬の男物の代表的な柄である亀甲柄は主に笠利町(現奄美市)の大笠利地区でその大半が製造されていました。 戦後大島紬の全盛時代には全生産量の40パーセントを占めるほどの生産高を上げていました。 ただその製造法は親から子への経験による伝承であり、その製造の理論的な裏づけはなく、当時は大目、小目という呼称で呼ばれた二種類の亀甲が主に製造されていました。 笠利地区では亀甲の織り方も独特で、経絣は筵を必要分絣モデ掛けにかけて おいて織り進むにつれて筵をその都

        • 龍郷柄のルーツを探す

          龍郷柄のルーツをめぐって 龍郷柄の起源を技術的な面から辿っていきます。 大島紬が生産されたころは手括りでの絣作りであったため、小柄しか生産されていなかったのです。大正5年頃に鹿児島の人で笠利(喜瀬)の人を妻にしていた得冨勘四郎氏が「交代締め」の発明し、それまでの小柄から大柄作りが成されるようになりました。初期のころは「交代締め」に挑戦する人がいましたが失敗する人が多く、なかなかうまくその技術を使いこなせなかったようです。 当初は経絣のみにしか締め機は利用されなかったようです

        大島紬糸目付計算書

          大島紬の歴史年代表

          私が「大島紬誕生秘話」を書くにあたって作成したものです。 人物名はそれぞれ大島紬に何らかの功績があった人達です、その人達についても順次功績を正していきますので、ご期待してください。

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          大島紬の歴史について

          大島紬の歴史について 大島紬の歴史といえば巷間述べられていることは千三百年ないし四百年といわれていますが、この件に関する裏付けは正倉院に液久より褐色の布が献上されたとの記述を元にしているのです。 当時 奄美や屋久島、種子島方面を液久と呼称していたようです。 これらのことを根拠に大島紬の歴史を千三百年と言い習わしてきたのです。  古代より衣食住はその土地において自給自足の状態であり、現在の様な分業体制は取られておらず、その土地により布も織られていたのです、奄美もその例にもれず布

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