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「出す」に意識を向けてみる

今朝は今年一番の冷え込みだった。
水溜まりの水も凍っていた。
かなり寒かったが、部屋の窓を全開にして朝の掃除をおこなった。
さすがに今日はサボってもいいかと思ったが、
寒いという言い訳は、暑い、眠い、だるい、などの
別の言い訳に繋がりかねない。
どうせ散歩で冷え切った体になっているついでだ。
えいや!と一気に掃除を済ませた。

掃除をしていて、いつも不思議に思うことがある。
毎日毎日掃除をしているのに、必ず埃が出る。
意識してゴミを出さないように心がけていても、必ずゴミも出る。
特別なことをしたわけでもないのに、
埃が少なめの日もあれば多めの日もある。
しかし、多かれ少なかれ必ず出る。
生活をするということは、意識の有無に関わらず
何かを排出しているということだ。
「出る」=無意識(受動的)
「出す」=有意識(自発的)
掃除をするということは、無意識に「出た」ものにちゃんと意識を向けて、
自らの意志で「出す」ということに繋げることだ。
無意識に出てきたゴミや埃は、意識をして家から出す。

「出す」という行為は、思ったよりもずっとずっと深い。

人はとかく、入れる、増やす、大きくする、広げる、ということが好きだ。
出す、減らす、小さくする、狭める、といったダウンサイジングより
よほど興味があるようだ。
「出す」ということを意識せずに、「入れる」ほうばかりに目を向けて
どんどんいろんなものを増やしてしまう。
目に見えるものに限らず、目に見えない仕事や人づきあいなどもそうだ。
「入れる」ほうは、意識、無意識、いずれも能動的に受け入れやすい。
生存本能の一つなのかもしれない。
だけど、本当は「出す」を確実にきちんとしておかないと、
いつか必ず行き詰まってしまう。

呼吸ということば。
「呼」は息を吐くということ。
「吸」は読んで字の如く、そのまま吸うということ。
吸うよりも吐くがはじめに来る。
「大きく息をしてください」と言われたら
ほとんどの人は、息を吸う。
深く息を吐く人はいないんじゃないだろうか。
過呼吸という症状は、息を吸いすぎようとしてしまうことで起こると
聞いたことがある。
息を吐く(出す)は意識しないと深くできない。

出入口ということば。
まず、出す。
次に、入れる。
漢字の順番も「出す」が先に来る。
電車もまず人が降りてから出ないと、新たに人は乗れない。
これも呼吸と同じ、出してから入れる。

すべてのものは「出さなければ入らない」。
これって、あらゆるものごとに当てはまる真理だ。
そして、無意識の「出る」では出し切れないから
ちゃんと意識を持って出さなければならない。

いい人も、いいことも、いいものも、
すっきりとした余裕のある空間を好むものだから、
普段から余計なものは出して準備しておこうと思う。

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