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文科省が教育内容を決める社会では、いったい何が起きているのか

日本人は当たり前のように文科省の検定教科書、学習指導要領に基づく教育内容、教育制度を受け入れている。
そのことに対し、多くの人は何ら疑問も持たないだろう。
しかしながら、そのことは「勉強」の定義を「与えられるものを完璧に習熟すること」にしてしまう。
そしてこの国のエリートの能力も文科省によって定義づけられ、彼らの意思決定によって社会が形成されている。
日常会話で聞かれる「あなた頭いいですね、頭悪いですね」という「いい、悪い」の定義にももちろん影響を与えている。

■「与えられるものを完璧に習熟することが勉強である」社会で起こること



与えられるものを習熟することが求められるので、与えられるもの(教科書の内容)を疑う習慣(思考)がなくなる。(本当にそうなのかと考える習慣)

言うまでもなく、教科書を書いているのは人であり、大学教授とかであり、神ではない。
教育を中央統制してしまうと、教科書を執筆するものは絶対的な権威者となり、それを検定するものもまた絶対的な権威者である。
この国に権威主義がはびこるのは、そうした制度的理由がある。
教科書の内容を教授するものは立場的にかならず権威者であり、権威者が定めたものに従わせ、評価する立場にある。
このようにしてパワハラの土壌が知らずに形成されていく。
中央統制型の教育をおこなう国家において、パワハラは文化となる。

■思春期を受験、受験‥で過ごす子どもたち(エリートたち)はどうなるのか



「子供から大人になる」とは、認知発達の観点からいうと、社会的認知能力の成長であり、哲学的な思考ができるということである。

※哲学的な思考の主なものは、批判的思考(本当にそうなのか)、ゼロベース思考(そもそも)、目的思考(なんのために)である。

思春期に、教科書をひたすら読む、問題集をひたすら解くということを考える暇もなく毎日おこなっていたとしたら、どのような人格形成がなされるだろうか。
社会的認知能力の発達を欠いた大人は、おそらく自己中心的で近視眼的であろう。
それは明治期後半から太平洋戦争にかけてエリート将校の作戦失敗としてあらわになり、それは現在でも続いていると考えられる。

■文科省のような中央機関が教育内容をこと細かに規定するだけで、いつ戦争をおっぱじめるかわからないような危険な社会になる


権威主義とパワハラの土壌、社会的認知能力、哲学的思考力の喪失、完璧主義からくる隠蔽体質、哲学的な問いを挟めない空気、そこに中央集権という巨大な国家権力‥

平和を希求する人々こそ、地域主権を訴えてほしい。

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