「平家ロック物語」だったらまだ面白かった。「犬王」だから見に行ったのに。

導入


本記事はあまり犬王が面白いと思っていない、むしろ酷かったと思う人のレビューです。面白かったと思った人は気分を害する恐れがあります。また、先に言うと声優陣の演技や歌はよかったと思っている人です。目を閉じて聞いたところ、普通に鳥肌が立ちました。ただただ内容のお話をします。

 糞映画じゃん、と心から思える映画でした。いや、やりたいことは分かるけど、え、どうしてこんなのになっちゃったの、と思いました。
 友人2名とお昼の上映を見たのですが、内容の酷評で会話が盛り上がって盛り上がって、段々、酷評を言っている自分たちの性悪さを嫌悪し始めて、別の会話をするけど、それでもふと「やっぱあれ酷かったよな」と思いだしてまた酷評を続けるくらいひどいと思いました。

 ですが、ネットでレビューを見ていると、そこまで評価は悪くないという感じで驚きました。なので酷評レビューで心苦しくはありますが、「俺もそう思ってた!」と思う人に向けて記事を書いてみることにしました。同時に、なぜこうも世間と意見がずれてしまったのかについて内省をしつつ、そのわけを考えてみました。

「糞」の本質ではないがツッコミたくなったポイント7つ

原作通りの展開、ただただ演出の拙さ等の以下の事については、「糞映画じゃん」と思った理由の大きなところではないので、端的に書いて深くは酷評しません。
(以下、気分が乗ってしまい、ですます調ではなく、である調になってます。文体変わって気持ち悪いですがご容赦ください。)

  1.  障害がどろろ的に治ってしまう展開はどうなのよ。;青い芝の会って知ってる?百歩譲っても、治らない盲目の琵琶法師の子は僻んだりする描写があれば話が広がったのに。→多分オリジナル展開ではなく、原作に忠実な展開なので言及はしない。

  2. え、ともなのお父さんの成仏軽すぎない?;もう行くわ達者でな、ってあんなに呪ってたんじゃないの?息子めっちゃ苦しがってたんですけど。ただ名前変えると見つけづらいっていう伏線張りたいがための演出だったの?→ただ演出が拙いだけ。

  3. ともなは結局目が完全に見えないの?それともわずかに見えるの?;琵琶法師とのファーストコンタクトの時に、琵琶法師が指さす方向を普通に見ていた。しかし、周囲に琵琶法師が複数いることには気づかなかった。また、前半はおそらく視覚には頼っていないカラフルなともなの知覚世界の描写がある一方で、最後ともな座が解散させられたときにともなが琵琶法師の総本山に逃げ込むシーンでは、カラフルな知覚世界ではなくリアルに目が見えているように描いている。え、どっち?え、あのカラフル知覚世界は盲目の人の認知を描いてたんじゃないの?→ただ演出が拙いだけ。

  4. あれ、この子たち何がしたいんだっけ?と途中で見失う。;あれ、親の仇?自分の表現?(その割に自分の個性についての描写ない)平家物語の話を拾う?→ただ演出が拙いだけ。

  5. え、あれはお兄ちゃんだったの?というか意外と家族と仲いいの?え、和解シーンないの?;後半、将軍の前で猿楽を披露するように犬王パパが犬王に伝えるシーンがあったが、犬王を囲んで「すっげー」と言っている二人は格好的に犬王をいじめていたお兄ちゃん2名、だと思うのだが、決して何も触れられない。え、あれがお兄ちゃんだとしたら、若いシーンとか書いたら話に奥行き出ると思うんだけど何で書かないの?というか、犬王は放逐されていたはずなのに、なんで稽古場の中に普通にいるの?最初、稽古場に入れてもらえない演出してた気がしたから、そこも「ようやく認められて稽古上に入れた!ってしたら、犬王とその家族の深堀ができた気がするんだけど…。→ただ演出が拙いだけ。

  6. この映画の一番のピークはどこだったの?どこで一番盛り上がればよかったの?;将軍前でボヘミアンラプソディーしたこと?それとも最後にデーモン小暮みたいな犬王の顔のドアップを無音で見させたところ?無音にするというキメ演出に効果はあった?→ただ演出が拙いだけ。無音時間にそこまで意味を感じないので、逆に無音のデーモン小暮顔アップタイムが面白くなってしまっている。

  7. 最後の『ボヘミアンラプソディー』のオマージュ;なぜオマージュするのはクイーンなのか。女王蜂ではだめなのか。従来の演出の否定で行きついた先がクイーンなのになぜクイーンを選んだのかについての演出、描写が皆無。→ただ演出が拙いだけか監督がそこまで考えていない。


以下、「糞映画じゃん」と思った理由について書きます。

「平家ロック物語」だったらまだ面白かった。「犬王」だから見に行ったのに。

表題にもした不満点です。私は以下の理由で人を誘って映画を見に行こうと決めました。

  1.  「犬王」というなんだかとっても面白そうなタイトル

  2. PVの個性的で魅力がありそうなキャラクター

  3. 猿楽という今では古典芸能としてポピュラーではないエンタメが、全盛期の時代にそれが大衆にとってどれだけ人気を誇っていたかを書いてるよ、という監督のインタビュー記事


タイトル、PV、監督インタビュー記事。映画を見に行くか行かないかを判断する基本的な判断要素だと思います。これらを踏まえて、見る前には犬王にこんな期待を抱いていました。

  1. コンプレックスのある主人公らが芸能の世界でのし上がるサクセスストーリー

  2. 今や伝統芸能になっている猿楽をリアルタイムで楽しんでいた人々を通じて猿楽という未知の世界についての理解が深まる内容

  3. 映画『ホーホケキョ隣の山田君』のような場面転換の装置としての音楽、

  4. アヴちゃんらの音楽に合わせて描かれる壮大な『平家物語』の世界とその新章『犬王の巻』

しかし、犬王の初ライブから、「ああ、こういう映画を作りたかったんだな」と分かるとともにすべての期待が以下のようによくない意味で裏切られました。
端的に言えば、ストーリーを楽しむエンタメだと思って見て見たら、ストーリーはあるようで邪魔なだけで、そのせいで音楽をメインにした映画にもなりきれておらず、「クイーンが室町時代に転生して猿楽師になってみたら」というようなザB級映画として割り切った話にすればまだ面白かったと思います。

1・3・4.「サクセスストーリー」<「ライブ記録映像」だった

(以下、気分が乗ってしまい、ですます調ではなく、である調になってます。文体変わって気持ち悪いですがご容赦ください。)
 犬王の初ライブまでは、主人公らの成長過程が丁寧に描かれるので、感情移入して見ていられる。曲も和楽器メインでそれをややアレンジしたものと、作品に合わさっている。しかし、犬王の初ライブからすべてが一転する。ここからいかに残りの上映時間暇をつぶすかという思考に切り替わる。 
 
なぜならこのライブ以降、主人公たちが飛躍的に成長し、その内面がこれまで以上に大きく移ろいでいるはずなのに、これまで以上にその過程を描写しないからである。曲も和は完全にどっかに行くが、彼らがその時代の音楽を捨てなぜロック調(クイーン)にたどり着いたのか、なぜ琵琶をエレキギター風に演奏したのか(思い起こされる『風林火山』放映時の常に琵琶を弾いている上杉謙信演じるGAKUTOに琵琶演奏者が言った苦言『琵琶はエレキギターじゃありません。』)、なぜともなは女装メイクに行きついたのか、そしてなぜ橋の上ライブではその女装をしていないのか、掘り下げれば話が面白くなりそうなところを全無視して、記録映像をただ流している。
 かつ、歌が流れているときにアニメの絵が音楽に圧倒的に負けている。魅かれるような映像が一切ない。犬王やともな顔をドアップにする演出が多々あるが、え、使いまわしだよねこれ、というほど同じ絵をひたすら見させられる。もしかしたら口の動きなどを見る限り、使いまわしていないのかもしれないが、それ以外の差分が消してない。アングルも同じ。かつそもそもこの映画の絵自体が味のある絵であって、リアルに書き込まれたわけでもないし、かっこいい!や可愛い!と思う絵ではない。それを淡々と見させられると飽きる。
 かつ演出がライブ映像のパートだけなぜかリアルに寄せている(最後のボヘミアンラプソディー以外)。犬王がどろろ的に奇形児ではなくなっていったり、幽霊が見えたり話せたりするマジカル展開があるので、ミュージックビデオもアニメだからこそできるぶっ飛び展開ができたはずだが、なぜか頑なに、こういうからくり細工を組めば当時もこの演出ができたはず…という考証の影が見えるような演出をしている。まだアングルやカメラ移動で迫力を付けることもできたはずだが、それもせず、同じアングルでただただ流すだけで徹底的に見ることに飽きる。加えてなるほどリアルテイストで行くんだな、と思っていると最後の将軍前のライブの際にその幻想はぶち壊される。カラフルなスポットライトが当たってからはもはやギャグパートである。
 また、その歌詞は平家物語である。ポップスではなく、複雑な歴史ストーリーものなのである。よって、ちゃんと聞かないとどういう話の展開が今されているか決してわからない。この映画を見て犬王が、ともながどんな物語を歌っていたか脳みそに入った人は誰一人いないと断言できる。ストーリーを持っている歌詞が聞こえているはずなのに、脳がキャパオーバーで結果何も聞こえていないという不思議な現象が起きるのである。平家物語をキーにしているだけあって致命的としかいいようがない。
 この解決策は目を閉じて映像を見ないことである。目を閉じた瞬間にそのアブちゃんのパワフルな歌声に鳥肌が立つだろう。勇気をもって瞳を閉じよう。自分をともなだと思いこもう。目を開けても想像を超えるような面白いものは写っていない。そう、この映画はラジオドラマだったのだ、そう思えば残りの1時間、寝ないでなんとか意識を保っていられる。
 逆に言うとこの「なんと、猿楽や能はよくできていたのだろう!」ということに気づける映画である。この映画を見なければ、猿楽や能に対して、ローテンポだし動きのそっとしている、と思っている人も、「そっか、ローテンポにすることで、物語を受け取って解釈することが出来る時間的猶予が与えていたのかも?!動きがゆっくりなのも、物語の理解の邪魔をしないようにしていた配慮だったのかも?!」と、猿楽や能の素晴らしさに気づくことが出来てしまう

2.リアルタイムでも猿楽は糞、日本芸能は糞である。


  1でも述べたが、なぜ主人公たちは、猿楽を捨てて、ロック、クイーンにたどり着いたかについて一切描写はされない。「異世界転生してきたクイーンに会って感化されました」ならまだ分かる。そういえば一昨年くらいに『イエスタデイ』っていう映画あったなあ、そりゃあクイーンだもの、室町時代でも人気者になれるわな、と思うことができる。
 しかし、本作でクイーンは日本の室町時代に転生はしていない。彼らは自発的にロック、そしてクイーンにたどり着くのである。しかしそこはエンタメ作品にあふれた令和に生きる人々なら「描かれてなくてもそういうものだ」と理解することはできる。問題は、それを猿楽が最もポピュラーで人気があった時代にロックをやってしまったことである。
 まだ、猿楽の人気がなくなった現代において「猿楽にロック持ち込んでみました。」をやるなら分かる。
旧体制に新風を吹かす、という展開はテンプレートではあるが面白い。しかしそれを旧体制がまだ目新しく手人気もある時代背景でやっているので、猿楽や和楽器だけの音楽は時代を問わず、普遍的につまらないと馬鹿にしている、と思わされてしまう。いいやしかし実績のある監督、脚本家が作った映画なのだからそんな悪辣な意図はないはずだ……と脳がメタ的に映画を捉えてしまい、結果映画の没入感がどんどんと失われてしまう。

結論:この映画を「糞」と私が感じてしまった理由を冷静に振り返ってみるとこの作品のポテンシャルに対して残念に感じてしまうことが多すぎたために、映画に没入が出来なかったからだと思います。

 監督、脚本家ともに実績のある方であり、それゆえに「ああ、こういうチャレンジをしたかったのか!」ということが犬王のライブが始まるとすぐにどなたでも分かると思います。それと同時に、そのチャレンジが簡単に気づけそうなことの積み重ねのせいで達成できていないことが分かると思います。
 この映画を「糞」と私が感じてしまった理由を冷静に振り返ってみると、この作品のポテンシャルに対して残念に感じてしまうことが多すぎたために、映画に没入が出来なかったからだと思います。
 そして私、私と一緒に酷評をし合った友人と糞映画と感じない人との違いはこの「没入」できたか否か、そこにあると思います。内容面に高評価している記事や動画を見ると、そのストーリーの考察をされていたりします。描かれていない部分も気になって考察したくなるほど、皆さんストーリーに没入できているんだなあ、と感じます。それがレビューを大きく分けるところなのでしょう。
 


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