連載小説 介護ごっこ(7)最終章

 杖を握る手首に、ねんざのような痛みを感じていた。腰は砂袋を巻きつけたように重かった。引きずる足は、ほぼ意識から切り離されていた。二足歩行とは、なんて不安定な移動手段だろうと思う。
 バスターミナルの一番乗り場には、〝さざんか公園行〟のバスが止まっていた。時刻表を見た。
「ばあちゃん、これに乗ったんやね」恵美が4時の列の32の数字を指して言った。「あれ、でもこれ、さざんか公園行〟じゃないよ」
 32が丸で囲んである。それは市内巡回バスの印だった。
 〝さざんか公園行〟と市内巡回バスはルートが真逆だった。家の最寄りの〝梅の里〟は、〝さざんか公園行〟に乗ると、三つ目の停留所だが、市内巡回バスだと、市内を一巡して終点の駅へ戻る最後に通る。義母は浴衣の女性とおしゃべりしたくて、遠回りしたのかもしれない。それでも〝梅の里〟で降りていたなら、もう家には着いているはずだ。だが恵美が家に電話しても、義母は出なかった。
「ねえ、次のバスに乗ってみようよ」と恵美が言った。何か手がかりがつかめるかもしれないと言う。
 容子と恵美は、5時52分の巡回バスを待つ列の最後尾に並んだ。二人がけの席はすでに埋まっていた。恵美は容子を座らせてから、容子に背を向けて立った。ちらほらと空いている席があるのに、座ろうとしない。後頭部の真ん中で無造作に束ねられた髪の毛を見ていると、生まれたときの、ほとんど髪の毛のなかった我が子の頭が思い出されて、容子は笑いをこらえるのに苦労した。義母への不満、夫に降りかかった不幸、自分の病気への恨み、それとともに恵美の成長はあったはずだった。見逃してきたものが容子の支えになっていたことにも気づかずに、自分はこうして生きている。
 国道を横切った最初のバス停で、奥に座っていた客が降りた。容子が窓際へずれると、隣に恵美が座った。並んでバスの座席に座るのは何年ぶりだろう。触れ合う肩がなんとなく気恥ずかしかった。
 窓の外はまだ昼間の活気を残して明るかった。このバスが市内を一巡して駅へもどるころには、街は明かりでにぎやかになっているだろう。明かりの一つ一つは、昼間の仕事を終えた人たちの熱のしるしだ。それが、これから仕事を始める人たちの中へ移動する。それが夕暮れ時だと容子は思う。
 窓の外へ向けた目が、いつの間にか義母を捜すのを怠っていた。
公団前のロータリーでバスは向きを変え、駅へもどる路線に入った。恵美が通っていた高校の前を通過したとき、浴衣を着た女の子が連れだって歩くのが見えた。
「あ」と言った恵美の声で、容子は気づいた。
「盆踊りじゃない?」と笑みが言った。
 毎年夏休みのこの時期に、小学校のグランドで、夏祭りが開かれた。義母が恵美に自分とそろいの浴衣を着せ、夫がカメラを持って四人で出かけた。夫が亡くなり、恵美が中学へ上がって混雑した場所を避けるようになると、義母が浴衣を着るのを見て、今日が祭りの夜だと知るくらいだった。
 バスが国道から外れると、自転車の子どもや親子連れ、若いカップルが、点々と明かりを連ねたちょうちんに向かっていた。
 容子と恵美は小学校前でバスを降りた。むんとした暑さが、冷房で冷えた体には心地よかった。恵美は、レイとシューズが入った義母の手さげを反対側の腕にかけなおしてから、容子に腕を貸した。足腰の疲れは絶頂を突き抜けたのか、無感覚にただ交互に歩道を踏んでいた。盆踊りの音楽が聞こえてきた。和太鼓の音が、暗い頭蓋のドームに浮かぶほこり玉のようだった。そろいの浴衣を着た母親と小さな女の子が容子と笑みを追い越した。女の子の浴衣の帯が、赤い金魚の尾のように、ふわふわと揺れていた。二人は容子たちから、ずんずん先へ離れて行った。
 盆踊り会場は大変なにぎわいを見せていた。恵美は腕を容子の腕に絡ませてぴたりと寄り添った。慣れない人ごみに圧倒されているのが分かる。カラフルな照明に、色とりどりのヨーヨー。群がる子どもたちの黄色い声。でんぷんが焼ける甘いにおいに、長蛇の列ができている。
 やぐらから放射状に広がる提灯の光が、黄色のセロファンをかけたように、暗くなりかけた空をおおっていた。混雑にまぎれると、容子のおぼつかない足取りもまぎれた。様々な色や模様の浴衣や帯、ムームー姿の女性もいたが、義母ではなかった。だが、この中なら、義母の一人や二人は見つかりそうだった。
「見て見て」と恵美が小声ではしゃいだ。恵美が目で指したのは、紺の浴衣の老婦人だった。すらりとした後ろ姿とシルバーヘアが、義母とは似ても似つかなかった。目を凝らして分かった。紺地に点々とあしらわれた模様が、ソフトクリームだったのだ。手放しで喜ぶ恵美は、辺りのざわめきに負けてはいなかった。
 高く組まれたやぐらの周りには、見物人の人垣ができていた。踊りの輪が見物人の頭の隙間に、ちらちらと見える。踊りの音楽が終わり、輪から出る人と加わる人が入れ替わり、容子たちは見物人の間に体を割り込ませた。照明を受けた地面の広がりがまぶしかった。容子は輪の中に義母を捜した。
「いないなあ……」と恵美が言った。再び踊りの音楽が鳴り始めた。踊りの輪は、バラバラの素材で作った首飾りみたいだった。統一性を欠いた列が、進退を繰り返し、形を保ちながら、ゆっくりと回っていた。
「あ、あそこ!」
 恵美が指をさす。やぐらの端に、黄色のムームーが見え隠れしている。ゆっくりと回る輪の中で、義母は無心に踊っていた。義母の顔がこちらへ向き、表情が分かるくらい近くまで来た。恵美が手を振っても、義母は気づかず踊り続けている。ちょうちん袖から出た腕は、憎らしいほど自由でしなやかで優雅だった。
 恵美が義母の手さげから、白い花のレイを取り出していた。
「今度止まったら、ばあちゃんの首にかけてくる」
 音楽が止んで、拍手が鳴り渡る。レイを持って駆け出そうとする恵美を容子は制止した。きょとんとした恵美の手から、容子はレイを取ると、それを自分の首にかけた。胸を飾る満開の造花が、かさかさと乾いた音を立てた。足先の地面に杖を勢いよく突き立てると、容子は輪を目指して歩いた。笑みが跡からついてくる。土をこするその靴音に、容子は自分の足跡を知らされた気がした。

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