土瓶のふた(3)

春休みに入った最初の土曜日、片岡さんが引越の手伝いに来てくれた。片岡さんは新卒で着任した職場で、親しくしていた二つ年上の数学の教師だった。
 古雑誌を整理している片岡さんの背後で、鍵をもてあそんでいると、思い出した。
「今度の大家さん、あのときのおばあちゃんに似てる……」
 片岡さんは雑誌の束に紐をかけている。十文字の交点を縛る彼女の手首に、筋がくっきりと浮き上がるのを見て、私はその話題を引っ込めた。
 それは教師になって間もなくのことだった。ある男子生徒の家を訪問したとき、彼の祖母が、開運のお守りだと言って、手作りの飾りを出してきた。それは赤と黄と緑の小さな玉飾りだった。赤が恋愛、緑が健康、黄色がお金だと言う。作り笑顔で礼を言い、それをバッグに入れようとすると、体のどこかにつけていないと効果がないのだと言って、彼女はそれを私のジャケットの胸に、安全ピンでとめてしまった。生徒の家を出てすぐに外したが、翌朝、出勤すると、机上にその生徒の欠席を伝えるメモがあった。理由を見ると、『祖母が亡くなった』とある。あの毒々しい色の玉が、否応なく脳裏にちらついた。バッグの中を探ると、それは書類の下敷きになっていた。胸元にとめたときの老婆のぎこちない指の動きがよみがえった。罪悪感ならまだよかった。私のほうが被害者なのだと叫ぶ声に、私は必死にかぶりを振った。とにかく成仏してもらわねばならないと思った。四十九日までと決めて、私はそれを毎朝、服の裏につけるようになったのだが、それが大学時代から付き合っていた彼の手に見つかってしまった。「これ何?」と玉を引っ張られたときは、笑ってごまかしたが、その後の行為もどことなくおざなりな感じになった。そんなことがあってから、自分のほうからさっさと服を脱ぐようになったのだが、そこから坂を転がるように関係は冷えていき、私は27歳の誕生日を目前に振られたのだった。
「ちょっと、何ぼんやりしてんのよ」
 振り向いた片岡さんににらまれた。もてあそんでいた鍵をジャンパーのポケットに突っ込むと、レシートやのど飴や丸めたティッシュと一緒くたになった。部屋の中も、いるものといらないものとでごった返している。
「服はね、ここ3年以内に着たもの、かつ、傷んだり汚れたりしてないものだけ残す。あとは全部処分」と片岡さんが言った。その通りに分別しようとするが、豆腐をナイフとフォークで食べているみたいで、まどろっこしい。しわくちゃになったブラウスを吊るし持って悩んでいると、
「それもこっちね」と、私の手から奪って、ごみ袋に押し込む。
「よくそんなに、ぱっぱっと決められますねえ」
「さっさと決めないと、前に進まんでしょ。時間ばっかり経って」という片岡さんは、男がなかなか決められない。
「まだこんな専門書、置いてんの? 読むか?」
 片岡さんはハードカバーの本のページをパラパラとめくっている。大学で買わされた教科書だが、著者の教授の講義中にも一度も開かれなかったやつだ。
「読みませんよ」
 片岡さんが表紙をバンと閉じる。頬にかかる髪の毛が、風圧でふわっと揺れるのが憎らしい。
「本は重いからね。分けて入れないと運べないよ」
 片岡さんから手渡された本をダンボールのすき間に差し込むと、『青年心理学』という背表紙の文字が、箱のへりに沿って一列に並んだ。
 昼までに荷作りができて、あとは掃除だけになり、私たちはコンビニの弁当で昼食を済ませた。2時に、かつて私たちの同僚だった八木君が、友人から軽トラを借りてきてくれて、私はひと足先に自転車で初枝さんの家に行き、荷物が来るのを待った。いぐさの香りの座敷に寝転んだが、なんだか居心地が悪く、起き上がって押し入れから床下の収納に至るまで、のぞける場所は全部のぞいて回った。シンクの排水溝でさえ真新しいにおいがした。ただで住もうとしているあんたは、とんでもなく非常識な人間なんだぞと言われている気がする。あちこちの電気をつけたり消したりして、とうとうやることがなくなり、窓の外を眺めた。1メートルほど先のブロック塀に沿って、空の植木蜂が四つ並んでいた。塀の外は駐車スペースになっていて、以前は初枝さんの息子が車を止めていたのだろう。その先の細い道と畑を隔てて、古い土壁の隣家があり、庭の桜がちらほらと咲き始めている。昔、この辺りは緑に囲まれた静かな村だったが、ここ十年ほどの間に造成が進み、新しい町ができた。初枝さんの息子の住まいも、片岡さんが住むマンションも、その町の中にある。「うちは1LDKで八万よ」という片岡さんの声が不意に耳の奥によみがえった。今ごろ軽トラの助手席で、「ほんまゴミばっかやったわ」なんて、八木君と二人で笑っているのだろう。けたたましい笑い声、クラッシュ、悲鳴……、そんなくだらない妄想を追い払おうと、気持ち頭を横に振ったら、トラックが、バックの警報音をさせて入ってきた。
 部屋に一つ目のダンボールを運び込んで、ここがあきらめの境地なのだと妙な解釈を加える。とにかく後には引けないのだからと言い聞かせながら、次の荷物を取りに玄関を出ると、ダンボールを抱えた片岡さんと会った。こちらが手ぶらだから、ひどく気まずい。「もらいます」と言ってダンボールを受け取ろうとすると、「出てこないで、玄関にいてよ」と鼻息交じりに言われた。リレー形式で運ばないと、効率が悪いのだそうだ。
 荷物の搬入が済んで部屋で一休みしていると、拓がお茶とお菓子を置いて、こちらが礼を言う間もなくどたばたと去った。
「このうちの半分は開けないと思うよ」
 片岡さんは寄りかかったダンボールを平手で叩きながら笑った。側面には、〝たぶん処分〟と片岡さんの字で書かれてある。
「たぶんね」
 私も笑った。笑いながら〝処分〟の文字の二文字に〝結婚〟の二文字を重ねて、近い将来の引越に思いをはせていた。

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