土瓶のふた(2)

 抱いていた不安が、形を持って現れた、それがこの人なのだ。座卓をはさんで対面する初枝さんを眺めながら思った。カップから立ちのぼる湯気と、血色のよい丸顔が、幾分気難しさを和らげているが、コーヒーを混ぜるスプーンの動きは確実で、強情と言ってもよかった。視線が手元に向けられている。不自然さのかけらもない。それが不可解だった。
「失礼ですが、少し見えていらっしゃいますか?」
 私は思い切ってたずねた。
「見えるか見えんかで言えば、見えるとは言えませんよ」
 初枝さんの目がこちらに向いた。黒目が白く濁っている。
「感じるのは、そうねえ……、光ですね」
「明るいとか暗いとか……、ですか?」
「うーん、今、ここは……明るいですね」初枝さんは、しばらく宙の一点を見つめてから続けた。「砂糖粒をまぶしたみたいなのよ。きらきらしていてね」
 私はわざと音を立ててカップを置いた。
「昔は見えてたんですよ。あなたのうしろの壁を見てちょうだい。絵があるでしょう?」
 初枝さんは私の頭上に目を向けた。振り向くと、くすんだゴッホの絵が貼ってある。四隅を押しピンで止められ、絵の中心より少し上に、透明な丸いシールのようなものが貼り付けてある。それはちょうど、跳ね橋を渡る荷馬車の御者の部分だった。
「銀行でもらったカレンダーだったんですよ。もう40年も前になりますか。あの絵は最後まで見えてましたよ」
初枝さんはコーヒーを一口飲むと、ひび割れた唇の両端をピンで止めたように窪ませた。私は再び壁の絵に見入った。シールが張られた御者だけが、きりりとした昔の色をとどめている。ほかはかなり色あせているが、跳ね橋の角柱は、黒い縁取りのせいか、まだ晴れた空に存在感を失っていない。
「あの丸いのは……?」と私はシールのわけをたずねた。
「丸いの……?」
「ええ、真ん中に貼ってある……」
「ああ、あれね」初枝さんは余裕のある笑みを浮かべた。「あれはのぞき穴みたいなもんです」
 ファンヒーターの思い低音だけが、室内を満たした。
 冷めかけたコーヒーを飲み干すことに専念していると、突然、初枝さんが上体を傾けて、縁側の奥へ声を投げた。誰かの名のようだった。初枝さんは一人暮らしと聞いていたが。
 軽快な裸足の足音をさせて現れたのは小さな少年だった。少年は初枝さんの孫なのだと言う。小学校四年生の拓は小柄だが、がっちりとした体格で、色黒の顔にやや癖のある髪を短く刈り上げ、少し出た顎が初枝さんに似ていた。
「拓、こちらは山口……」
「広美です」
「ああ、広美さんでしたね。中学校の理科の先生やって。これから離れを使ってもらうからね。ほら、あいさつは」
 初枝さんに言われて、拓はそれを顎をわずかに持ち上げただけでやってのけた。
「よろしく、拓君っていうのね?」
 舌が乾いた口内でうまく回らず、なんとなく無様だった。にやりとして立ち去る少年を恨めしく目で追う。そばでは初枝さんが伏し目がちに笑顔を見せていた。適度に高い鼻と丸い頬にはさまれた谷が、精緻な口の両側までくっきりと伸びて、一瞬無愛想なピエロに見えた。憎まれ口も理屈っぽくなってくる年頃の孫に手は焼くけれど、かわいくて仕方がないという叫びを封じ込めている顔だ。拓は、初枝さんの一人息子と先妻との子供だと言う。初枝さんによると、母親は年下の男と恋仲になり、2歳の拓を連れて家を出て行ったらしい。当時、存命だった初枝さんの夫が、二人を連れ戻そうとしたが、結局、母親が離婚と引き換えに、拓を手放すことで折り合いがついたのだそうだ。
「あんな母親やったら、おらんほうがよろしいわ」と初枝さんは言った。
 離れというのは、前年、息子の再婚に合わせて増築されたバス、トイレ付きの1DKで、初枝さんがそこに住むつもりだったが、結婚後すぐに夫婦だけで近くの賃貸マンションに引越したそうだ。
「時々お見えになるんですか? 息子さんたち」
「いいえ。私が死ぬまで戻って来るなって、言ってあります」
 初枝さんは不機嫌な表情のまま腰を上げて、傍らの物入れから鍵を出してきて座卓に置いた。丸っこい貝殻のキーホルダーに、鍵が2本ついている。
「大きい鍵が玄関、小さい鍵が離れの戸ですわ」
 私は鍵に触れなかった。
「これはまだ、お預かりしないほうが……」
 初枝さんは私の言葉を無視して続けた。
「少しずつ荷物、運びはったらいい。大きいのは後にして。うちは今晩から泊まってもらってもかまいませんよ」
 つやつやした貝殻が、背に丸い光を背負って見える。何か嫌な予感がした。


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