土瓶のふた(10)

 学校の創立記念日に休みをとって、私は初枝さんと初めて外出した。下川さんがくれたグルメ街の割引券が期限切れにならないうちに、何か食べに行こうと私が誘ったのだった。ここ一年ほど電車に乗っていないという初枝さんは、その日も飾り気のないベージュのTシャツと黒のパンツ姿だった。今年70歳になる初枝さんは決して醜い人ではないのに、白髪染めもせず口紅もつけず、おまけにそんななりだから、おしゃれな同年代の人と比べると老けて見える。ファッションコーディネーターが普通のおばさんをセレブ婦人に変身させるテレビ番組を見たことがあるが、そういうモデルに適任だと思いつつ傍らを見ると、涼しい顔の初枝さんがいた。左手で私の肘をつかみ、空いたほうの手に白杖を持って、遠くの空を仰いでいる。白杖は5段の折りたたみ式だった。持ち手はゴルフグリップのようで、先端は白いプラスティックでコーティングされており、ゴムの弾性でもって伸ばしたりたたんだりできるものだった。
 バスを待ちながら
「なんか、かっこいいですね」と、私が杖を褒めると、
「これ、メイドインUSAよ」と言って、初枝さんは無邪気に杖の先で地面を叩いた。ぐらすファイバーのすがすがしい光沢に、つなぎ目のクッションの赤が際立って、なかなかしゃれたものだ。おまけに地味な初枝さんが持つから引き立つ。
 駅前でバスを降り、駅の構内へ通じる歩道を並んで歩く。私は初枝さんが、点字ブロックの上を歩けるように気を配ったが、初枝さんは、わざとそれを避けて歩いているみたいだった。
「大丈夫ですか?」と私が立ち止まると、初枝さんは靴の裏で点字ブロックの表面をこすった。
「このブロック、修理されたばかりみたいね」
「ああ、そのようですね。黄色が鮮やかです」
 初枝さんは得意げな笑みを浮かべて、その上で杖を二度三度振った。出っ張りに当たって、石突がカチャカチャと軽快な音を立てる。
「新しいのはね、靴がこれに引っかからないように気をつけないといかんのよ。私の友だちでね、その人も全盲やけど、これにつまずいて転んで、手首の骨を折った人いたわ」
 券売機の前に来ると、初枝さんはバッグから障碍者手帳を出してきた。
「一人分の値段で2枚買えるのよ。知ってた?」と、私の左耳に、かすかすした息を吹きかけた。往復買おうと言うので、窓口に案内すると、「あかつき台まで、往復ね。私、これ、この人、介助者ね」と、初枝さんは障碍者手帳を示しながら、大きな声で言った。
「440円です」
 駅員さんと目が合った。初枝さんが払うと言うのを断って千円札を出し、4枚の切符と釣銭を受け取る。
「ね、得したみたいでしょ? いや、広美さんは得してないね」
 外に出ると、初枝さんは快活で口数も多くなった。それが初枝さんの本来の姿なのかもしれない。人けのないホームには、杖の音が冴えた。
「コッチコッチって聞こえない? こっち見てって言ってるみたいで、なんか気まずくて」
 初枝さんは屈託なく笑う。
「一人で外出されたりします?」
「ううん、めったに……、いや、なくなったわ」
 私は初枝さんをベンチに誘い、並んで座った。初枝さんはバッグから扇子を出してきて扇ぎ始めた。
「昔はよく出歩いてたんだけどね。途中で見えなくなった人が訓練を受ける施設があって、私もそこで訓練を受けたのよ。もう40年近く前になるわ。杖を持って歩く訓練もやったわ。切符を買って、電車に乗ったり、スーパーで買い物したり。訓練士の先生が、ちょっと離れた場所から見てるのよ。ほら、小さい子どもがお使いに行くのをママが、後をつけるみたいに、見守ってるわけ。でも人がよく声をかけてくれてね。一緒に歩いてくれる人もいたりして。そうなると訓練じゃなくなるけど。でもまあ、どうせ訓練しても、一人でどこへでも行けるようになるわけじゃないからね。でも修了証をもらったら、一人でできるって気分になって、いや、やらんといかんと思って、なるべく毎日、出歩くようにしてたわ」
 初枝さんの話に幕を引くように、向かいのホームを快速電車が通過した。初枝さんは車体の陰のどす黒い、一見いかにも鈍重だが、一度回り始めると容赦のない車輪の回転を眉を寄せて凝視しているように見えた。
「あの頃はまだ若かったし、息子も小さかったから、肩に力が入っとったんやろうね。でも、いくら頑張っても、見えんもんは見えんのよ」 
 電車の到着を知らせるアナウンスが流れ始めた。
「これこれ、この案内が、昔はよく頭に引っかかってたわ。『危ないですから黄色の点字ブロックの』っていうのね。『危ない』のは私かな、電車かなってね。つまらんことよ。その頃は、道を歩いてて、『危ない』っていう声を聞いても、何が誰がどっちがって、つっかかりそうになってたわ。で、もう明日から引きこもってやるってふてくされて。そしたら『大丈夫ですか? お手伝いしましょうか?』って言われても、親切が頭の中をさらさらと素通りしてね。『ありがとう』って素直に言えないのよ」
 ホームに電車が入ってきた。私は初枝さんの手を取って、乗降口の目印へ導いた。窓から顔を出して、車掌が私たちが乗り込むのを見守っていた。
、ロングシートの隅に座ると、初枝さんは慣れた手つきで杖をたたんでから、話を続けた。
「でも私、なかなかこりない性分でね。一晩寝たら、また一人で出歩いてるのよ。それでまた、『危ない』が聞こえてふてくされて。なんでこんなこと繰り返してるのかって、冷静になって考えたら、分かったのよ。まだ見える世界にしがみついてるからって。片足は渡し船に乗せてるのに、もう一方が土手で踏ん張ってて。だからぐらぐら。そりゃ危ないわ。その頃ね、結婚したときに持ってきた瀬戸物を全部ダンボール箱に入れて持ち出して……。どうしたと思う? 全部壊したわよ。裏のブロック塀に打ちつけて。ガシャンって、一つ割ったら、もう止まらなくなって。全部割ったつもりが、箱を持ち上げたら、何か残ってんの。あの土瓶のふたよ。あのとき、なんでやろうね、あれは壊せなかったわ」
 電車が大きくカーブを切り、日差しがまともに照りつけた。初枝さんは目を細めて、額に手をかざした。
「今考えても、渡し船に乗り移るには、ああするしかなかったのよ。でもね、三途の川じゃないけど、渡ってしまえば、今度は向こう岸の人たちが見えんようになってしまったの」
「向こう岸?」
「そう、息子や拓や、広美さんのことが、分からない……。困ったもんよね」

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