土瓶のふた(18)

 手術が終わった週末に、私は初枝さんを見舞った。詰め所で名前を伝えると、私と同じ、アラサーぐらいの看護師が、さばさばした口調で、丁寧に応対してくれた。
 説明されたとおりに、角を曲がり、517号室の表示を見つけた。入り口を入ると、すぐ左が初枝さんのベッドだった。初枝さんは看護師さんに、首の湿布を貼り替えてもらっていた。
「こんにちは」と言うと、私と気づいて、「あれまあ」と初枝さんの聞き慣れた声が返ってきた。
「ほんとに、面倒かけて……、ごめんね」
 初枝さんは明るく言った。
「痛みますか?」
「まだちょっとね。でも、頑張ってリハビリして、今月末には帰れるから……、ね」と初枝さんは看護師さんに声を向けた。
「今月末はちょっと無理かな」看護師さんが笑った。「でも、中林さん元気だから、大丈夫、早く歩けるようになるわ」
 看護師さんは初枝さんの襟首を整えると、部屋を出て行った。
「もうほんとに退屈。ラジオ聞くのも、イヤホンじゃないと駄目でしょ。耳の中でわあわあやられるから、頭痛くなってやめたわ」
 初枝さんは空元気を出しているように見えた。私はベッドの下から丸椅子を引き出して座った。枕元の台には、イヤホンのささったラジオと「三日月堂」の紙袋が置いてある。
「下川さん、来られたんですね」
「さっき帰ったとこ」
 下川さんは、ヘルパーの仕事帰りに、毎日寄っているそうだ。
「あの部屋そのままにしてある?」
 初枝さんが急に真顔になってたずねた。
「作業部屋ですか? そのままですよ」
「そう。帰ったらあの穴、ふさがんといかんね」
「穴?」
「土瓶のふたを置いてるところ。私、あの中に落ちたんやと思うわ」
 私は黙って初枝さんの言葉を待った。
「あの日、橋から落ちた日ね、私がゲーム機の充電器を抜いてしもてね。拓が学校から帰ってやり始めたら、すぐ電池が切れて。それにあの子、えらい怒るから、『しょうもないことで怒るな』って言ったんよ。そしたらあの子、『こっちのほうがしょうもない』って紙切れの箱を蹴飛ばして、『おばあの言うとおりにしたる』って言って、箱を持って、出て行ってしもたんよ。私が冗談で、『高いところから撒いたら、スカッとするやろうなあ』って言ったことがあったらしいわ。でもあの子、そんなことするような馬鹿な子と違う、すぐ戻ってくるやろうって待ってたけど、6時回っても戻ってこなくてね。私もう、じっとしてられんようになって、捜しに出たんよ。あほやね、私が見つけられるわけないのにね。結局この始末。まだうっすらと見えてたときの道順を思い出しながら歩いたら、なんとか橋に着いたわ。橋は昔のままで、らんかんがなかった。私、橋の上から大声で拓を呼んだんよ。何回も何回も。そしたらね、川原の小石が……、あそこ石だらけやない?」
 私は話の妨げにならないように「ええ」とうなずいた。
「見えてきたのよ。私のあの張りぼての絵が……。ちらちらと光り出して……」
 初枝さんが台のほうへ手を伸ばす。私は湯飲みに手を添えて、初枝さんの手が届くのを待った。初枝さんはお茶でのどをうるおしてから、また話し始めた。
「すばらしい街の眺望よ。さえぎるものが何もないの。だんだん暗くなる中に、明かりが灯っていくのを高いところから見てる。息子が小学校に上がったころだったかな、六甲山に登ったの。視力もだいぶ衰えてたから、私はえっちらおっちらよ。やっと頂上に着いたら、もう夕方。でも、だからよかった。ちょうど町も海も山もが、西の空の太陽を振り切ってせり上がってきて。それで街の灯がじわっと染み出すみたいに灯っていって……。六甲山からの夜景、見たことある?暗くなってしもてから見ても駄目よ。日が沈む前から見ないと。それはものすごい地球の熱というか、人間の底力というか……、そんなのが見えるから。あのときの景色をね、あの晩、私、あの橋の上から見たわ。体が穴にすーっと吸い込まれて、落ち始めるまでね。ほら、夢で高いところから落ちる……、そんな夢、あるでしょ」
 真剣な初枝さんの目と、私の目が合った気がした。
「まあ、体が地面にぶつかるまでが長かったこと。生まれてから今までに見たものや会った人が、風になってびゅんと通り過ぎたみたい。どーんと落ちたとき、ああ、私、地球と相撲、とってるって思ったわ。そら、かなうわけないよね」
 初枝さんは愉快そうに笑った。
 そのとき、戸口に隆さんと拓が現れた。隆さんは私を見ると丁寧に頭を下げた。拓の頬が少しふっくらしたように見えた。そこにはあの夜のしおれた拓はいなかった。
「これ、頼まれてたもの。ハサミも中に入ってるから」
 隆さんがレジ袋を手渡したとき、広告のような紙の束が透けて見えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?