土瓶のふた(20)最終回

(20)
 数日後、渡り廊下の正面の壁に、小さなパネルがかかっているのに気がついた。それは、行き交う生徒達の白い夏服のすき間から、ちらちらと私の目を誘った。1年生の少年が一人、それを追ってまた一人、じゃれあいながら私の肩先を追い抜いて行った。あとの少年が、前の少年をパネルのかかった壁に追いつめる。まだ声変わりのしない二つの笑い声がもつれ合い、パネルが少し傾いた。彼らが走り去ったところで、私はその前に来た。それは、作業部屋に横たわっていたちぎり絵にほかならなかった。形はすべて無数の色の粒になり、自然光の一部と化していた。平山さんが、初枝さんをとうとうここまで連れてきた。私はパねルのゆがみを直さずに、理科室に通じる廊下へ折れた。

 土曜日に買い物から戻ると、玄関に見覚えのある靴があった。
「いいのよ、下手でも」
 下川さんのよく通る声が、縁伝いに聞こえてきた。挨拶しようと部屋をのぞくと、下川さんが私に飛びつくように言った。
「先生、なんとかしてくれません? この人、また、こんなことやってんのよ」
 初枝さんは、チラシを切っている。
「今度は真ん中から右回りでやるんやって」
 初枝さんは土瓶のふたを持ち上げて、切った広告を差し入れた。
「私が入ってるコーラスサークルに誘ってるのに、なかなか……」
「だってねえ……、私、ほんまに音痴なんよ」
「だから、それでいいの。声出すだけでストレス発散できるやん」
 下川さんは引かない。
「……しょうがない人」
 へんくつそうな初枝さんの唇から、笑い声がもれた。初枝さんは土瓶のふたの出っ張りをつまみ、まるで金庫のダイヤルを操作するように、右へ左へと回す。そしてぴたりと動きを止めると、大事なことを思い出したときのように、大きく目を見開いて言った。
「行ってもいいけどねえ。でも、立ってるだけよ、きっと」

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