土瓶のふた(14)

 しばらくすると、居間の隣の八畳間に、ビニールシートが広げられた。ガムテープで不器用に貼り合わせられた4枚の新聞紙が、台紙になるらしい。作業中以外は、換気のためか、少し障子が開けてあったので、私は縁側を通るたびに、作品の様子を垣間見るようになった。
 畳一畳ほどもある台紙の真ん中より少しずれたところに、あの土瓶のふたが置かれてあった。台紙は四隅にテープを貼ってシートに止めてあるので、ふたは重しのためではないらしい。そう言えばゴッホの絵に貼ってある透明なシールと同じ位置だった。初枝さんは、台紙の周囲から左回りに紙を貼り重ねていた。渦を巻くように内側へ向かって、少しずつ土瓶のふたに近づいていく。だが、のぞくたびに、グロテスクな乳首のような土瓶のふたが、私の目を捉えるだけで、それ以上の何かを求めるのは、初枝さんにも私にも酷というものだった。
 新聞紙の台紙が、すっかりチラシの紙切れにおおわれるまで、半月もかからなかった。だが、それで完成というわけではないようだった。初枝さんは一度貼った上に、さらに紙を貼り重ねていた。
 ある休日の昼下がりに、作業部屋をのぞいたとき、台紙の周囲と、ふたの付近で、色のトーンが微妙に違っているように見えた。ふたの周囲には白や暖色系の色が多く、外へ向かうにつれて、寒色が度合いを増している。だが、目を細めて見たり、激しくまばたきしてみても、暖色のかけらが、残り火の呼吸のように点滅する、それまでだった。私はころあいをみて、何の絵なのかと、製作者本人にたずねてみようと思っていたが、作品の前にはいつくばっている初枝さんの姿に、なかなか声はかけづらかった。
 拓はと言うと、やはりゲームざんまいだった。私が拓のために図書館で借りた本は、いつも開かれずに返されていった。その日曜日も、読まないだろうなと思いつつ、また2冊借りて図書館を出た。線路下のトンネルを抜けると、長い坂道になる。いつものように半分を過ぎた辺りで息が上がり、そこから自転車を押して上った。坂をのぼりきったとき、見覚えのある背中が、刈り入れを終えた田んぼのあぜ道に見えた。平山さんだ。名前を呼ぶと、置物のたぬきみたいに、ぱちくりした目で私を振り仰いだ。
「今日も撮影?」
 私は平山さんのバイクの隣に自転車を止めた。
「いえ、今日は充電ですよ」
「何の?」
「僕です」
「充電って、こんなところに座って……」
「そうすよ」
「ふうん」
「ずっとこうしてるとね、体が地球の中心に向かって、引っ張られてる感じがしてきますよ」
「ほんとに?」と私は笑った。
「人間って絶えず重力に逆らってますからね。大変なんですよ。本当は寝転がるほうが効果あるんですけど、倒れてるみたいでまずいでしょ」
 私はうなずいて、話題を変えた。
「アルバム見せてもらう機会がないね」
「学校には持って来てるんですけど、あそこじゃね」
 スマホを見ると、昼時だった。
「お昼、一緒に食べる?」私は言った。「先に行って席を取っとくから、平山さんはアルバム持って来るってのでどう?」
「あっ、いいすか?」
 県道沿いのファミレスは、家族連れで込み始めていた。席に案内されて5分ほどで平山さんが着いた。注文を終えると、平山さんは水のグラスを隅に寄せて、ファイルを出した。ぎっしりと写真が詰まっているのが、その厚みから分かる。平山さんがそれを私のほうへ向けて、表紙を開いた。薄紫の背景に、枯れ枝のようなものが写っている。奇妙な写真を撮るのが好きだと聞いていたが、確かに珍しいモチーフだ。
「これは……、なんだろう……」
「ヒントは背景の色です」
 目を近づけても、ピンと来ない。
「これ、ぶどうですよ。食ったあとの」
 思わず噴き出した。実物より、かなり拡大されているが、言われてみれば、そう見えてくるから不思議だ。
「ごみ箱にポイとされそうなものですけどね、こうして見ると面白くないですか?」
 店の女性がけげんな顔で、平山さんのコップに水を足して去った。
「これは、すぐに分かるでしょ?」
 平山さんがアルバムをめくった。細長いグラスに、骨組みだけのうちわが刺してある。輪郭の曲線と放射状のひごが、濃紺の背景に浮き上がって幻想的だ。「職員室のごみ箱に捨ててあったんで、救助したんです」
「救助?」と私は笑った。
「紙が破れててぼろぼろでしたからね」
「じゃ、修理でしょ。救助っていうならさ」
「でもね、それじゃ普通のうちわにかなわんじゃないすか。こうしたら、うちわの常識を越えてるでしょ? って思うの僕だけ?」
 平山さんは私の反応を楽しんでいるようだった。
 食事が運ばれてきて、鑑賞会はいったん休憩に入る。食事中の話題は専ら互いのクラスのことになった。私はこの職に就いて七年になるのに、教員採用試験の面接の手引きに繰り返し書いてある「毅然とした態度」というのができない。面接を受けたときも、「男子生徒にスカートをめくられたらどうしますか?」などと聞かれたが、「次からスカートはやめます」と答えて、面接官の失笑を買ってしまった。こんこんと説教することなどかつてない私のクラスは、常にだらしがなく、つい先日も、道徳の授業中に、隣の担任の青山さんに廊下の窓から「うるさい!」と怒鳴られたばかりだった。青野さんの前では、生徒はミキサーのジュースみたいなもんで、彼がオンすればじゃんじゃん動くし、オフすればしいんと沈む。そんなスイッチがあれば、どんなに楽だろうか。平山さんは青野さんとは全く違うタイプだった。声を荒げることのない平山さんのクラスも、猿山などと呼ばれて、私のクラスと一緒にたびたび学年会で問題が指摘され、対策が練られるのだけれど、結局のところ私たちの指導力不足という雰囲気に落ち着くのだった。でも平山さんのクラスでは、誰かがもてはやされるでもなく、ないがしろにされるでもなく、めいめいが領域を侵さずうまくやっているふうだった。
「みんなばらばらでね。でも僕のことをきもいかどうかで賛否を問うと、きっと満場一致で可決ですよ。そういうまとまりかたなんです」
 笑いながら、他人事ではないと思った。
「でも、教室の空気、吸うなって言われたことないでしょ?」
「じゃ、消えろって言われたことあります?」
 平山さんが膨らんだ頬をほころばせるのを見て、負けたと思った。
 食事が済むと、再び鑑賞会が始まった。障子に写ったスズメの影、溶けて崩れかかった雪だるま。
「次のは難しいですよ」と言って、平山さんは少しもったいをつけてから、素早くページをめくった。
「分かった。これ、メロンでしょ?」
 私はパズルがパチンとはまったような快感を覚えた。
「ええっ、なんで分かったんすか?」
 平山さんは上半身を起こして目を丸くした。
 生死の境をさまよう母の病床に、一晩付き添ったときのことだった。病人の顔を見るのが忍びなくなると、私は文庫本にすがった。字面をなぞるだけの読書に嫌気がさすと、また母の顔を眺めた。そんな堂々巡りから救い出してくれたのは、お見舞いにもらったメロンだった。ネックライトの光にぼんやりと浮かんだ球体に、私は恐怖と美を同時に見たように感じた。心臓をわしづかみにされたような、背筋を鋭いもので切られたような感覚に、思わず叫び出しそうになるのをこらえると、涙があふれた。にじんで輪郭を失った球体の網目模様が、やがて洗われたようにくっきりと浮かび上がると、私はそれから目が離せなくなった。どのくらい眺めていたのか分からない。それが、私の脳裏に完全に刻み込まれるには、十分な時間であったのは間違いない。

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