土瓶のふた(15)

 初枝さんの家の庭には、立派な柿の木があった。11月に入ると、赤く実った果実が、葉を押しのけるようにして樹木を飾り始めた。去年は収穫するほど実らなかったと言う。おととしは、まだ、不仲になる前だったので、息子が一人で取り入れたのだそうだ。
「じゃ、今年はなり年なんやね」と言って、初枝さんがうつろな視線を縁の外に向けたとき、鈴なりのこずえから鳥が飛び立つのが見えた。
 初枝さんのちぎり絵の話をすると、平山さんがえらく興味を持ったので、見に来るついでにと、柿の取入れを頼んだところ、彼は二つ返事で引き受けてくれた。
 拓は珍しく、初対面の平山さんとすぐに仲良くなり、取入れの準備段階から、別人のような働きぶりを発揮した。平山さんと拓が、交代できゃたつに上り、私は下で身を受け取る。そばで初枝さんは、口を半開きにして、柿の木を見上げていた。初枝さんが一つ鼻をすする。畑を焼くにおいが、うっすらとただよっている。初枝さんが額に手をかざす。濃い影におおわれると、ひきつれていた目元が、急に優しげになった。その目は、澄んだ空に響く植木ばさみの音に向けられているようだった。そんな初枝さんは、誰とも仲たがいするような人には見えなかった。
 取入れが終わると、平山さんは柿の木を写真に収め、拓も何度かシャッターを押させてもらってうれしそうだった。初枝さんが昼食の握り飯を運んできて言った。
「せっかくの休みやのに、すみませんねえ」
「どうってことないです。いつでもお手伝いしますよ」
 平山さんは初枝さんの手から、握り飯の盆を受け取って、縁側に置いた。握り飯は全部、真っ白な俵型だった。中身は梅干、昆布、かつおぶし、しゃけだと言うけれど、どれが何かが分からない。平山さんと拓は、中味を当てっこしながら楽しそうに食べていた。嫌いな昆布に当たらないように、拓が慎重に選んだ一つが昆布入りだった。
「おばあって、ほんまに性格悪いな」
 拓は昆布ののぞいた飯にかぶりつき、顔をしかめた。
 拓は思いがけない来客がすっかり気に入って、いつになく上機嫌だった。食事が済んでも、拓は平山さんのそばを離れなかったが、近所の少年たちが誘いにくると、自転車で出かけて行った。
 外で柿の実を一つ一つ洗っている初枝さんに、「一服しましょうよ」と声をかけたが、「私はいいよ」と言ったきり、手を止める気配がないので、コーヒーは二人分にした。
「中林さんが大切にしているのって、これですね」
 平山さんは壁の絵に目を向けて言った。
「そう。丸いものが貼ってあるでしょ」
 平山さんは絵を見上げたままうなずいた。製作中のちぎり絵は隣の部屋にあると言うと、平山さんはさっそくよっこらしょと腰を上げた。座卓の上に、子分みたいなカメラだけが残った。こちらへ向いて置かれた大きな一つ目に、一人で失笑すると、ゆがめた口元がひどく醜く感じて、真顔に改めた。
「すごい大作ですね」
 戻ってきた平山さんが鼻息交じりに言った。
「ね、土瓶のふたが置いてあるでしょ?」
「ええ、あれね。あれはたぶんですけど……、これでじゃないすかね」
 平山さんはカメラのレンズを指した。私は口をつぐんで、次の言葉を待った。平山さんは壁の絵から視線を落とすと、コーヒー皿からスプーンを取った。
「中林さんが、ものを見る方法の一つに、触れるというのがありますよね。例えばこれ」平山さんは、柄を持って、スプーンを真っ直ぐに立てた。「これなら、まあ、触ることによってスプーンだって分かりますよね。それが下絵になるんじゃないですかね。そこに、スプーンにまつわる記憶が呼び出されて……、中林さんが、これまでに見た何百本ものスプーンと、スプーンそのものだけじゃなくて、例えばそれに映った自分の顔とか、アイスクリームをすくって口に入れたときの冷たさとかも、。そういうのがここにちらちらとひらめいて、中林さんの頭の中に一つの像となって映るんじゃないですかね」
 平山さんはスプーンを皿に戻した。しばらく沈黙があった。私は平山さんの説明をもてあましていた。平山さんは言った。
「ただ、手で触れられないものとなると、どうなんでしょうね。空とかあの柿の木のこずえとか」
 平山さんは、縁の外にまぶしそうな目を向けた。
「見える人が説明しないと、イメージできないよね」と私は言った。
「そう言ってしまえば、なんか僕らのほうが優位って感じがしますけどね。だけど僕らには今、僕らが見ているあれらだけが縁側から見える空と柿の木でしょ?めいめい違って見えてるでしょうけど」
 私は窓枠の額縁に収まっている庭に目をやりながら、言葉を継いだ。「見えてしまえば、限定されるってこと?」
「そうです。中林さんには、青空の色も木の枝ぶりも、無限にあるわけですよ。枝に鳥が止まってたり、空に飛行機雲があっても、構わないわけじゃないですか」
「まあ……、でも、柿を取ったり、草むしりをするとなると、実際とのずれが障壁になるよね」
「それはそうです」
「まして、その絵みたいな平面だと、どうしようもないよ」
 私の言葉に、平山さんはおもむろに立ち上がり、その絵の前へ進んだ。
「ここに御者がいて……」
 平山さんは、左手の人差し指で、丸いシールを抑えたまま、右手を絵の上で滑らせ始めた。
「ここに馬、そしてこっちが車輪で……、これが空と柱。それから下のほうに運河、川岸、草、洗濯する人たち。中林さんならこの草の葉一本まで描いてるかもしれない。だって最後まで見えてたのが、この絵なんでしょ?」
「なんか切ないなあ」
「それは僕らが見えてるからですよ。見えない人がどんな感じかをイメージするのに、目を閉じるじゃないですか。でもそうすると、中林さんからは遠ざかってしまう」平山さんは、また御者を指した。「この人の位置がいいな。ど真ん中じゃなくて」
 私はのどの奥につっかえたものが、なかなかとれないようなもどかしさを感じた。
「それで、あのふたとレンズが、どうつながるの?」と私は尋ねた。
「中林さんがちぎり絵をするのと、僕がファインダーをのぞくのと、似てるんじゃないかと思って。あのちぎり絵で何を描こうとしてるのかは、分かりませんけど、中林さんは、あのふたに触れることで、みてるんだと思うんですよ。ふたに触れると、自分がどの辺りを貼っているかが分かる。そして全体も見えてくる。もしも中林さんが描きたいものが、どこかの風景だったとしたら、それを頭の中から外へ出すためには、あのふたが、どうしても必要なんだと思いますね。僕もシャッターを押すと、過去の記憶が頭の中でスパークするみたいなんですよ」
 平山さんはカメラをバッグにしまった。
「中林さんに頼んでおいてください。あれ完成したら、写真とらせてくださいって」

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