連載小説 介護ごっこ(3)

 恵美が駅地下の駐輪場に自転車を止めて、バスターミナルで待っていると、祖母が乗ったバスが着いた。金髪の頭と黄色のムームーで、すぐに祖母だと分かる。一緒に歩くときは、恥ずかしくて、他人のふりをしたくなるが、遠めに捜す場合は、目印になってよい。
 乗客が次々に降りてくる。そして祖母が降りてきた。ガラガラ抽選機から落ちてきた当たりの玉みたいだった。祖母は辺りをきょろきょろと見回してから、横断歩道のほうへ歩いて行った。数人の歩行者が、信号が変わるのを待っていた。祖母がそこに加わると、年配の男性が、祖母を見てぎょっとしたのが分かった。だが祖母は、堂々と腹を突き出して、真っすぐ前を見ていた。信号が青になり、一斉に渡り始めた歩行者に混じって、小柄な祖母が、ちょこちょこと渡って行く。人々の間に見え隠れしていた祖母が横断歩道を渡り切ったとき、向こう側の歩道を歩いてきた婦人に、日傘をさしかけられた。顔見知りらしく、二人は楽しそうに話しながら、阪神文化センターの建物の中へ消えていった。

 恵美のバイト先は、店と教室が一緒になった手芸店だった。レジに座り、好きな小物作りをしながら、客が来たときだけ応対するという緩い仕事だった。
 その日もレジに座ってかぎ針を動かしていると、頭の中で、どうしようどうしようという繰り返しが始まった。あと半年で服飾専門学校を卒業する。だが、恵美は就活に本腰を入れられずにぐずぐずしていた。一番仲のいい友人は、すでに大手アパレルメーカーの内定をもらい、全国に展開された店舗のどこに配属されるか、楽しみにしていた。恵美は、自分がショップに立って、「何かお捜しですか?」と客に声をかける自分が想像できなかった。捜索は大好きだ。布や糸に触れていると、心がなごんだ。高3で進路を決めるとき、母は恵美が看護学校へ進むことを願っていた。恵美も、病に倒れたばかりの母の願いにそむきたくなかった。服飾を学びたいという自分の希望は胸にしまったまま夏休みが過ぎた。恵美が勇気を出してそれを伝えたのは2学期の末だった。あのときの母のがっかりした顔を今でもたまに思い出す。

 店長が刺繍教室を終えて戻ってきたので、恵美は休憩に入った。駅ビルの2階にあるベイカリーでパンを買って、階下に降りるエスカレーターに乗ったとき、正面の窓の向こうに黄色のムームーが歩いているのに気づいた。祖母だ。フラのレッスンがちょうど終わったのだ。確かに祖母だが、恵美は目を疑った。連れがいる。男の人だった。中折れ帽をかぶった年配の男性だ。幻覚ではないかと数秒間目を閉じてパット開くと、二人は弁当屋の前に立っていた。
 エスカレーターを駆け下り、建物から出ると、ちょうど男性が弁当を受け取るのが見えた。信号が変わるのを待って、恵美は小走りで横断歩道を渡った。犯人を尾行する刑事になったつもりで二人のあとを追った。祖母と老紳士の関係について思い当たることは何もなかった。まさかあんな目立つ祖母と密会はないだろう。一方、祖母は落ち着いたもので、広がったスカートの裾を揺らしながら歩いている。たすきがけにした白いバッグが歩くたびに尻の上で小刻みに跳ねる。やがて二人は写真スタジオの角を折れて、一階が学習塾になっているマンションに入った。恵美は足を速めた。エントランスをのぞくと、黄色のスカートが、ちょうどエレベーターの中に消えるところだった。階を示す電光は、三階で止まった。恵美はエントランスから道へ走り出て、建物の裏手の外廊下を見上げた。三階の通路を金髪の頭と中折れ帽が歩いている。二人は通路の行き止まりまで進むと、ドアの向こうに消えた。
 この前テレビで見た〝シルバー婚活パーティー〟を思い出した。高齢者にも恋愛感情はあり、それが健康の秘訣だそうだ。祖母が毎日楽しそうなのは、恋をしているからだろうか。そうならば、そっとしておきたい。元気でいられるのも、長くてあと5年ぐらいだ。派手ななりに、あきれられても、老いらくの恋を冷やかされても、祖母には自由に生きてほしい。

 バイトを終えて家に戻ると、母は丸椅子に座って夕食の準備をしていた。
「ばあちゃん戻ってる?」
「今日は遅かったのよ。帰ってきたの四時ごろよ」
「やっぱり……」
「何よ」
「いや、別に」
 恵美は言葉を濁して祖母の部屋を覗いた。薄暗い中に、「一枚、二枚」と低い声がする。祖母がお札を数えている。黄色のムームーは、きちんとハンガーにかけて吊るされてある。
「ばあちゃん、お金、たくさん持ち歩かんほうがいいよ」
「たくさんやないよ」
 祖母は小金持ちだった。専門学校の学費も、全部祖母が出してくれた。隣町には、小さなアパートを持っていた。そこの家賃と年金で、祖母には毎月そこそこの収入があった。だが、亡くなった祖父には大変苦労させられたらしい。祖父は親から譲り受けた財産のほとんどを賭け事で失ったと言う。祖母の言う祖父の〝極道〟については、盆と彼岸、命日には必ず語られた。一方、祖母は昔からケチと言っていいほどの始末屋だった。ところが、少し前に、祖母が近所の子どもに、千円札を握らせたらしく、もらうわけにはいかないと言って、子どもの母親が返しにきたことがあった。それ以来、祖母が、もっと大きなお札を誰かれ構わずあげたりしないかと、母は気をもんでいた。
「ばあちゃん、お昼ご飯、ちゃんと食べた?」
「うん。食べたんやろうね」
「どこで食べたの?」
「ミモザよ」
 それは昔なじみの喫茶店の名前だった。
「誰と食べたの?」
「フラの先生」
 まさかあの中折れ帽の老人が、そんなはずはない。祖母はお札を財布に納めると、バッグの中をさぐって紙切れを出した。
「あ、しもた。イセエビ。とよちゃんに電話して送ってもらわな」
「ばあちゃん。イセエビは冬よ。今は夏」
「そうかね。夏やったらアワビやね」祖母は枕元から電話の子機を取った。「これ、どないしてかけるんやったかな」
「豊子さんはもう亡くなったよ」
「え、亡くなったん? いつよ」
 受話器をいじる祖母の手が止まる。
「去年」恵美は祖母から受話器を預かり、元にもどした。「今度、お墓参り行こね」
「とよちゃん、亡くなったんや……」
 別段、悲しむでもなく、祖母はまた、バッグの中をがさがさしていると思ったら、また紙を引っ張り出した。今度の紙は大きめで、チラシのようだった。〝こてまり浴衣バザール〟と書いてある。祖母が晴れ着を買ってくれた店だった。レンタルの割引券がホチキスで止めてある。
「着物はようけあるから、いらんって言うのに、あそこの店長の、ほら、ええと、名前、忘れた。見るだけでも見にきてって言うから……」

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