土瓶のふた(12)

 夏休みに入った。初枝さんは相変わらず、点字タイプを打ち続けていた。声をかけても返事があったりなかったり、打っては我を忘れ、また打っては我に返るようだった。廊下に響くその音は、何にも例えようがなく、何にも溶けず調和せず、邪魔なんて中途半端なこともせず、あらゆる音を消し去った。盆踊りの太鼓や花火はざらめをかけるように、せみの声ははハンマーで砕くように。雨が拍手のように降る時だけは、それは織り機の音になった。点字を打った紙は、入れ物の箱の高さの三倍ほどになり、その上の土瓶のふたは、遺跡から出土した土器の一部みたいに祭り上げられていた。
 夏休みが終わるころ、初枝さんは義兄の葬儀で一晩家をあけることになった。拓は私と留守番だった。あと一週間で二学期が始まるのに、宿題にほとんど手をつけていないと言うから、午前中はそれに付き合うことにした。だが、まず机の上を片付けることから初めなければならない。教科書やノートを本箱に立て、お菓子の包みを捨て、いらないプリントを処分すると、なんとか机らしくなった。
「ゴミはゴミ箱に捨てなさいよ」
「この部屋自体がゴミ箱やからな」
「じゃ、あんたもゴミなんか?」
「そう、広美さんもやで」
「ふん、あほ!」
 私は拓の額を軽く打った。
「宿題どれ? 早く出す、早く」
 拓は引出しの中から紙の束を出してきた。私はぐにゃりと変形した冊子をまっすぐにしながら言った。
「こういうのは、きちんとファイルにはさみなさいよ」
「中学生にも、そんなん言うてんの?」
「そうよ」
「言われた人は、なんて言うん?」
「分かった分かったって」
「それでちゃんとするん?」
「ううん、たいていやらないね」
「じゃ、言うだけ無駄やん。嫌われるだけやろ」
「それでも言い続けるの。嫌われてなんぼの仕事よ」言ってからしまったと思った。「それはいいから、どこまでやったの?」
 拓は二つ折りの上質紙を開いた。それは「夏休みの生活」というやつで、一日一行の表になっている。いくつかの項目と日記の欄が設けられており、〝歯みがき〟や〝勉強〟などの欄には、できたら色を塗るようになっているのだが、歯みがき欄はすでに31日まで、茶色の色鉛筆で塗られている。
「ちょっと、あんた、全部塗ってしもてるやん。今日はまだ23日やで」
「これ出すの、9月1日やからな。先生にはバレへんやろ」「だいたい「あんたが歯みがきしてるとこなんか、見たことないんですけど」
「風呂で磨いてるって」
「はあ? それにさ、なんでもっと奇麗な色で塗らへんの?」
「茶色だって奇麗やんか。茶色に謝れ」
「もっと、ほら、明るい色ってことよ。黄色とか赤とかさ」
 天気の欄は「晴れ、晴れ、晴れ」で終わっているし、日記も拓の荒い字で仕上げられている。8月10日には「はかそうじ」、13日には「はかまいり」と書かれているが、その辺りは私も帰省していたので本当なのかもしれない。だが、それ以外はでたらめだ。
「おい、こら、いつからくもん教室に行き始めたんよ」
 火曜と金曜の日記欄には、〝くもん〟と書かれ、それ以外は〝おばあちゃんの手伝い〟と〝プール〟と〝ゲーム」がバランスよく記されてある。拓は回転式の椅子でぐるぐる回りながら、にやついている。
「ほんとにゲームばっかりしてないで、くもんでも行けば? それにさ、きのうだって、おばあちゃんの手伝いって何したの?」
「ええと、そうや、塩ふりかけた」
「なんやって?」
「ばあちゃんが野菜、いためてるときな、塩を入れろっつうからさ」
「それだけ?」
「……、お金拾った」
「はあ?」
「ばあちゃんが、台所でお金落として、見つからへんって言うから、おれが拾ってやった」
「あのな、ばあちゃんは、目が不自由なんやから、拓がやって、当然なの」と言うと、拓は大人びた口調で返す。
「広美さんは、ちっとも分かってへんな。不自由してんのはこっちやし。ばあちゃんは好き勝手やってるやんか」
「そう見えるだけや。考えてみ。ばあちゃんは一人で好きなところにも行かれへんし、テレビも見えへんし……」
「そんなこと知ってるわ。おれはずっと一緒におるねんから。ばあちゃんは自己中やねん」
「自己中?」
「おとうちゃんも奥さんも、ばあちゃんが追い出してんで」
「追い出した?」
「壁の絵あるやろ? ぼろぼろの。おとうちゃんがあれ外して、奥さんが持ってきたやつかけたから。額に入った奇麗なやつ。それで、ばあちゃんがごっつい怒ったんや」
 拓は、私をにらみつけた。
「……まあ……、それは……、ちょっと置いとこ」
 私は言葉を濁したまま、拓に鉛筆を削って渡してやった。拓はやっと宿題に取りかかった。昼食は家でそうめんを食べ、夕食は拓の希望で中華を食べに行った。初枝さんは出かける前に、好きなものを食べるようにと言って、いらないと言う私の手に一万円札を握らせた。私の手のひらに押し当てられた初枝さんの指は、確かにフライパンの熱に耐えうる菜箸のようだった。

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