見出し画像

雨の博多で異人たちを観てさめざめと泣いた。


雨のキャナルシティ博多で鑑賞

大分からはるばる博多まで出てきてやっと異人たちを観た。
地元じゃ本当に心から楽しめないと思ったから。本当は朝一の回で観たかったが、前日の仕事が遅くて普通に起きるのが遅くすべての時間がずれ込み午後一の回で観た。
天神からキャナルまで歩いたけど、雨の博多も人がいっぱい。傘ですれ違うのも大変なぐらい。
キャナルの中も週末だからにぎわっていた。そんな中をひとりで初めてのユナイテッド・シネマに向かう。

期待値が高まりまくっていたここ一ヵ月

結構ちょうどいい時間についたのだけれど、今ってチケットもぎらないのね。この前、中洲大洋に行ったのもあってどこでもぎられるのかうろうろしてたら10分前ぐらいになってて慌ててスクリーンに入った。
いよいよ待ちに待った異人たちが観れる。かなり期待値は高まっていた。
今、NHK-FMでやっている篠田三郎による異人たちとの夏の「朗読の世界」も毎日欠かさず聴いているし、この映画に関する情報もかなり見ていたし。
アンドリュー・ヘイ監督自身がゲイなんだーとかすでに人気ゲイドラマシリーズをヒットさせてる人なんだーとか。田舎のおっさんゲイはその程度の認識。前情報入れすぎるのもどうかと思ったけど見ちゃったなぁ。

ギャン泣きはしなかった、さめざめと泣いた

いよいよ本編。割と冒頭でものもらいができている左目からつーっと涙がこぼれたのが分かった。
もうこの映画の設定だけでアラフォーゲイとしてはかなり胸いっぱいで今日の雨のようにさめざめと泣いてしまった。
泣きに来た気持ちが全くなかったわけではない。何かを発散するようにギャン泣きしたかった気持ちは正直あった。けれど、そういう映画ではなかったんだ。
もっとリアルに切実にゲイの生き方を考えさせる物語。
自分事として考えると決して派手に泣いたりはできないのだなと思った。

気づけなかったジェイミー・ベル

物語の展開は早く主人公の両親が出てくるのも予想以上に早かった。普通にあぁこれがお父さんなのねと観ていたのだが、それがジェイミー・ベルだというのはたぶん30分以上経ってから気づいた。ヒゲのあるジェイミー・ベルはまるで別人でアメリカの俳優にこういう人いたよねって感じだった。
「リトル・ダンサー」のジェイミー・ベルももう38歳。若き日のとはいえ父親役をやる歳になったのかと。なんとも感慨深かったなぁ。
ストレートなら39歳の僕も父親真っ最中だったんだろうなぁとかも考えてしまった。

頼れる誰かと言ってほしかった言葉たち

物語を進むにつれこれは監督が言ってほしかった言葉たちなのではないかと思った。それはカミングアウトしていない僕のようなゲイにも刺さってきた。
そして、ゲイが一人で生きていく中で頼れる誰かという存在。それは望んでも簡単には手に入らないもの。だけれど、この人間の弱さが丁寧に描かれたファンタジーの中では確かなものとして現れる。ある種、ゲイのこうあってほしいという願望を詰め込んだ映画と言えるかもしれない。

これはゲイをトリートする映画

フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドやらペット・ショップ・ボーイズやらいかにもなゲイミュージックが物語を彩っていたわけだが、これも監督のセルフ・セラピー的な意味合いが強いのかなと思った。
現在50代の監督の一番多感だったであろう80年代の音楽でありアラフォーの僕なんか思いも及ばない大きな意味を持つ音なのだろうなと。
そして、その個人のトリートメントが他の誰かのトリートメントになるということを知っているんだなと思った。映画というマスに向けたメディアで発信されどこかのゲイの傷が少しでも癒えるのならという想いが伝わってきそうでそういう意味で素敵だなと思った。

もうちょっとガツンときてもよかったかも

ゲイ的には間違いなく5重丸の物語。
だが、これがマジョリティであるストレートにどれだけ伝わっているのかというのは正直疑問だな。
ゲイの侘しさ、寂しさ、虚しさ。。。救われない痛み。
嫌というほど詰め込まれているのだけれどね。
イギリスのゲイドラマと言われればそういう感じだなという印象だし、もうちょっとガツンときてもよかったかもとエンドロールを見ながら思ったかな。
アメリカならもうちょっとカタルシスを入れてくるだろうとかね。
繊細であるっていうのはすごいことなんだけどね。
日英の淡い色彩の感じが丁寧すぎる感じが出ちゃったかなぁって感じ。
なんてことを考えながら席を立ち、家族連れ、恋人同士、友達連れであふれる週末のキャナルをひとり歩いて後にした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?