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I have no friends。

高校の間、毎年4月の新年度頭は学校を休んでいた。
1、2日だけ熱があると仮病で休み、その後はほぼ皆勤賞で通った。
理由は簡単だった。毎年新しいクラスに馴染めなかったから。
そう、僕には友達がいなかったのだ。

「友達になってください」

中学生の頃、近所のTSUTAYAに行ったときに知らない人に声をかけられた。
声をかけられたというか、突然「友達になってください」と言われた。歳は自分より上だったので近くの大学の新入生だったのかなと思う。
そんな変な容姿ではない男の子。とにかく顔がマジで切実な感じで怖かったのを覚えている。
突然だし、ほとんど何も返せず逃げた気がする。
今となってみればどんな想いであの子は声をかけてきたのだろうと。かわいそうなことをしたなと反省もするけれど、その時の僕は世の中変な奴がいるもんだとその程度のことを思って終わった。その後、自分も友達というものに狂うほど悩むことになるとも知らずに。

みんなと違う学校に行った結果

地元の中学からは周りのほとんどの子は近くにあるH高校に進学していた。
それが普通だった。偏差値的には高くはないが普通科もあり近いのもありで選ばれていた。
そんな中、僕は何を血迷ったかほんのちょっと成績が良かったので欲を出して少し遠い進学校に通うことを選んだ。
選んだ時点の気持ちとしては頑張って国立行くぞって感じで友達についても新しい友達いっぱい作ろうっとと気合と希望に満ち溢れていた。
だが、これが大きな間違いだった。
知らない人ばかりの高校で僕の人見知りが炸裂したのだ。
地元の中学からは数えるほどしかその高校には進学していなかったのでまさにひとりぼっちで早々にクラスでぼっちになってしまった。

目に映るものすべてに気後れしてしまった

なぜあそこまで急にしゃべれなくなったのか自分でもわからなかった。中学までは割と普通の学生生活を送っていたからだ。あんなに友達と話せていたのに。
厳密にいうとどうやら違うらしいのだけれど、いわゆる場面緘黙的な感じで話しかけるのはもちろん話しかけられてもキョドってしまって何のコミュニケーションも取れない状態になってしまった。
特に自分に友達がいないという事実を自覚してからは最初よりももっと心身ともに硬直し貝のようになっていた。

やさしく手を差し伸べてくれたAくん

後ろの席に誰ともしゃべらずお昼も一人で食べている僕がいるので前の席のAくんは気を使ってたまに話しかけてくれていた。
宅麻伸のような正統派の男前のAくん。常にやさしくぼっちの僕にも接してくれた。
Aくんはクラスの誰ともフランクに話せる感じだが、お昼休みはロン毛の親友が他のクラスから遊びに来て一緒にお昼を食べていた。
一度Aくんが一緒に食べようとお昼を誘ってくれたことがあった。やさしくてをさしのべてくれたわけだ。
しかし、ぼっちのくせにプライドばかり高い僕はその親切を断った。
一緒にいたロン毛の親友が邪魔しちゃ悪いよと言ったその横でAくんがとても悲しそうな顔をしたのを覚えている。
それからはさすがにやさしいAくんもあまり振り返って話しかけたりはなくなった。僕は自分で差し伸べられた手を振り払ったのだ。

恐怖のホームルーム

クラスの中では息苦しくて毎日死んだ顔をして過ごしていた。ブスでデブな男がひたすら黙って座っている姿は周りにどう見えていたのだろうか。僕は周りにどう見えているのか気になって席を立つことも自分なりの時間の過ごし方をすることもできずにずっと自分の席に座っていた。そんなこんなで1カ月ほど経ち、あの恐怖のホームルームがやってきた。
割と存在感のあるぼっちがクラスにいることに担任教師も気をもんだのだろう。ある日の帰りホームルームで「クラスでまだ馴染めてない人がいますね。話しかけたり仲良くしてあげましょう」みたいなことを担任が言った。
僕はそれを聞いて居たたまれなくて顔を真っ赤にしていた。そして、早く帰りたい早く帰りたいとそればっかり思っていた。
周りで誰誰?誰の事言ってるの?と聞いてる女子のコソコソ声が聞こえた。
クラスの中で地元の中学からはたった一人の同級生の女の子がほらあそこのとなんとなくこちらを指しているような気配を感じてさらに僕は居たたまれなくなった。
担任教師は僕への配慮のつもりだったのだろうが、結果的には僕の心は余計追い詰められた。ぼっちの繊細な心はズタズタになった。

家庭訪問で友達がいないと親にバラされて

その後である。恐怖のホームルームなどかわいいものだと思える地獄の時間がやってきたのは。
5月の下旬頃、当時はまだあった家庭訪問の順番が回ってきてしまった。
僕は何を言われるのか戦々恐々としていた。
しかし、どこかで安心もしていた。担任教師も鬼ではない。
さすがに親の前でぼっちの話はしないだろうと。万が一、言ったとしてもオブラートで包むぐらいのことはするだろうと。
しかし、願いはかなわなかった。
なぜか日曜日の8時ぐらいという遅い時間になり、母親だけでなく小学校教諭の父親までいる中で担任教師は休み時間は一人で過ごしているぼっちだと言いやがったのだ。
あの蛇女のような顔をした担任教師の表情を覚えている。一応彼女なりに考えてああいうやり方を選んだのだろう。
親には真摯に向き合おうとしたのだろうが、ぼっちの心はズタズタを通り越して粉々だった。
担任教師が帰ってからがまた地獄だった。
両親からの涙の尋問である。親は親で大切な息子が学校でぼっちだということがつらかったのだろうが、泣かれたぼっちの僕はもっとつらかった。
あの時、よく自殺しなかったなと。あの日の自分をほめてあげたい。
それぐらいつらくてかなしくてどうしようもなくて。
蛇女のような担任教師も憎かったが、何より憎かったのは両親を悲しませている僕自身だった。だから消えたいし死にたいと思った。
それからはそれまでよりもっと貝になりさらにぼっちである自分を隠そうとした。
それが高校1年生の出来事。そのあとのほぼ1年。
どうぼっちとして高校生活をやり過ごしたのかあまり覚えていない。

クラスのA軍に目をつけられて

2年生の時、クラスのA軍に少しいじられる存在になった。今から思えばいじりというより馬鹿にされているだけだったのだが、それでも全く何の話もできなかった時よりは他人と多少は話すことができたのがうれしかった。
とはいえ、ぼっちのままなのでクラスの異端児ではあった。
教室移動は常に一人だったし、急な変更を聞き落としていて授業に遅れそうになった時もあった。
ある日、クラスのA軍の一人にお昼はどこで食べているのか聞かれた。僕はとっさに他のクラスで友達と食べている答えた。
今思えばクラスなんて数えるほどしかないわけですぐバレる嘘をなぜついた?自分のことながら思う。
ただ本当のことを言うことはできなかった。本当はトイレでひたすら時間をつぶしていたからだった。

トイレで過ごした無為な時間

1年生の途中ぐらいからだっのだろうか、はっきりしていないがクラスにいるのがつらすぎて3階の図書館の前のほとんど誰も来ないトイレで時間をつぶすようになっていた。
保健室にもかなり行ったが割と保健室は保健室で住民がいてそことは水が合わないのを感じてあまり利用しなかった。見るからにあぶれた子供たちの拠り所なので保健室の教師は優しくて決して悪くなかったのだが。
トイレではホームセンターで買った1000円の時計をひたすらにらんで過ごした。安物なのに時計のボタンを押すと月面のような蛍光ライトが盤面に光りそれがぼっちの荒れた心を落ち着かせてくれた。いわゆる便所飯だけは僕のプライドが許さなかった。母の持たせてくれるお弁当は食べずにトイレに引きこもった。当然おなかが鳴るし昼からの授業もつらかった。でも、便所飯をしないというのがぼっちの僕の最後の一線だった。それを越えないことが何か心の支えになっていたような気がする。
しかし、トイレでの時間もつらくなると図書館に昼休みになったらすぐに逃げ込むようになった。
本棚の陰で特に本を読むことなく読んでる風に過ごした。
ちょうどその頃にA軍に昼の過ごし方を聞かれたのだった。

バレてしまった嘘

そんなある日、突然嘘はばれることになる。
A軍につけられていることも知らずにその日もチャイムが鳴ったら早足で図書館へ向かった。
本棚の陰で今でも覚えているが松永真理のiモード事件を読んでいるふりをしていた時、本棚の陰からA軍がニヤニヤしながらこちらを見てきた。
たぶん彼らは何も言わなかった。ニヤニヤとぼっちの奇異な行動を見た後、笑いながら走って逃げていった。
僕は一人で震えそうになり心臓の動機が止められなかった。
教室に帰るとロッカーの方にA軍がたむろっていて席に着いた僕をニヤニヤというより蔑んだ目で見ていた。
その視線がつらかった。完全に彼らと目は合ったが、僕は必死で見ていないふりをした。ぼっちはぼっちなりにとにかく必死だった。

コワモテの先生だけが気にしてくれた

図書館に逃げていることを知られてからA軍の数人からはあきらかにこいつはいじっちゃダメな奴という目で見られるようになっていた。
それでも残りの数人は半笑いで露骨にバレない程度にいじってきた。
今の基準であってもあれはいじめ認定は厳しいレベルなので本当は優しい奴らだったのかもしれない。でも、あの時の僕にとっては存在を脅かす連中でしかなくぼっちの学生生活は相変わらずつらかった。
その日も授業の前に生物教室に入るときに少しA軍からからかいの言葉があった。内容は覚えてはいない。A軍の下っ端が何かを半笑いで言ってきた。
僕はいつものことだと流していた。彼等もそれ以上はしてこなかった。
授業の後、生物のコワモテの先生に呼び出された。
僕は何かしたかと怖がっていた。先生は吉幾三を険しくしたような顔で恰幅もよくちょっと意地悪そうな雰囲気もあった。
「お前いじめられてるんじゃないか?」
先生は言ってくれた。僕はそんなことないですと必死で否定した。
しかし、心の中ではうれしかった。こんなぼっちの僕を気にかけてくれている人がいることがうれしかった。
顔は怖い感じだけどこの先生の心は綺麗なのだとその時感じた。
僕が否定するので先生は分かったと。それならいいけどと。
それからその先生の見方が変わった。特に交流があったわけでないけれど、授業のたびに心の中でありがとうと言っていた。

存在を消したかった校内行事


書きながらぼっちの様々な記憶が蘇ってくる。もう25年近く前のことなのにこんなに覚えている。頭のボタンを押して記憶をデリートしたい。
嫌な記憶なのに消去できないなんて。人間なんてララ~ラ~ララと吉田拓郎になってしまいそうだ。しかし、なんと不完全な生き物なのだろう。本当に。
校内宿泊の夜に誰よりも早く一人で寝たなとか体育祭の時もトイレに逃げ込んでいたなとか。修学旅行は・・・ってもうやめよう。際限なく出てくる黒歴史に自分でも今も苦笑いさえできないレベルだ。とにかく自分の存在を消したかった。それだけしかなかった。

誰も友達がいなくていいとは言わなかった

ぼっちはつらかったつらかったと長々と書きながら考えた。
果たして僕は本当は何が一番つらかったのだろうか。
周りの目を誰よりも気にする自分がぼっちになってしまったというつらさ。
話しかけるという他人が当たり前にできることができないというつらさ。
ぼっちである自分自身をどこかで認められず行き場のなかったつらさ。
いろんなつらさがあのぼっちの日々には詰まっていたのだけれど、一番はぼっちは悪いことなのだという強い引け目をひっくり返せないつらさだった。
そう、誰も友達がいなくていいとは言ってくれなかった。
友達がいないのは異常で僕は常にそれ以外にはなれなかった。
僕を大事にしようと接してしているようでぼっちの僕は明確にバツを付けられていた。
僕は女っぽいとかでいじめられたことがない。ノンケへの擬態がうまかったからだろう。だからゲイであるということより本当はぼっちであることの方が自分自身の存在を大きく揺るがすようなショックを感じてきたような気がする。
今日も今の時間もどこかでぼっちであることに心を削り減らしている学生がいるのだと思うと胸が痛む。
高校でぼっちだということは僕の場合、その後の人生に大きな影響を与えてしまった。大学時代も社会人になってからもあの頃ほどではないけれどぼっちであることに変わりない。
それでも、ブスでぼっちなアラフォーゲイでもなんとかかんとか生きている。そのことがどこかの誰かの救いになることを信じてこの駄文を記す。



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