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京都モダン建築めぐりと思い出ぽろぽろ 

「そうだ、京都にいこう」
そんなCMが関東地方では流れるそうで。今、京都駅はスーツケースを携えた観光客でいっぱいである。

アフターコロナ。
今年は海外からもたくさんの取引先が来社された。タイ、ベトナム、アメリカ、フランス、韓国、エトセトラ。
そのすべてが週末金曜の来訪だったのだから、目的は明らかというものだ。

わたしの勤め先の事業所は京都から新快速で約15分程度。東京駅から新浦安の距離感をイメージして欲しい。
つまり、みなさん京都観光をセットで出張で来られているのだ。むしろ京都がメインという感じすらある。
京都ブランド恐るべし。

最近、東京営業所勤務のKちゃん(千葉県民)が出張でやってきた。
たいていのことはTeamsで打ち合わせができてしまうので、たまの出張にウキウキのKちゃん(わたしも東京に出張するときはウキウキするもんね)。
もちろん金曜日にKちゃんはやってきた。そりゃそうよ。

久々の対面。Kちゃんは京都駅前のホテルを抑えていたので、せっかくだし京都で飲むことにした。昨年の失敗を反省して、2週間前に予約をした。

お店は三条通り。烏丸御池からしばらく歩くとKちゃんが声をあげた。
「これ何の建物? いい感じだね!(ウキウキ)」

ご存知だろうか。京都市内はレトロ建築が多いことを。
例えば、四条烏丸を100メートル程上がったところにあるディーン&デルーカ 京都店は旧北國銀行だった建物をリノベショーンしていて、入るだけでも気分が上がる。この建物は辰野片岡建築事務所が設計。東京駅のあの辰野金吾だ。
京都は先の戦争で空襲の被害を受けていない。だから明治・大正期の建築物がけっこう残っている。

さて、前置きが長くなったがここからが本題。
秋の京都へひとり時間を楽しんできた。

文化庁移転事業らしいです。今年はもう終わってしまったけど、毎年開催されるようです。

今年京都へやってきた文化庁。元々は京都府警が入っていた建物だった。
府警を追い出して上洛された。

威風堂々。省庁なので一般人は入れません。
左側が元からあった建物(旧府警)。ガラスの建築物から右側が今回増設された文化庁。
ガラスの理由は隣の京都府庁の旧知事室から大文字山が見えるようにするため、とはガイドの建築家さん談。設計は京都工業繊維大学の岸和郎氏。

そして、文化庁のお隣が京都府庁。

明治37年(1904)竣工の京都府庁旧本館。現役です。


中庭もいいんです。手前の枝垂れ桜は円山公園の孫だそうで。


ね、現役でしょ。


給湯室も素敵でした(冬は寒いだろうな)。ここでいけずな会話がされているのかな。ふふ。


地下鉄に乗るまでの道すがら、もう1件。聖アグネス教会へ。

こちらも現役。毎週、日曜礼拝が行われています。厳かです。

聖アグネス教会は平安女学院の敷地内にある。こちらは平女(平安女学院の略称)の礼拝堂も兼ねているらしい。
そんな案内を読んでいたら、夫の母型のおばあさんを思い出した。

夫は祖母を「おばあさん」と呼んでいた。おばあさんの実家は京都御所のすぐそばで商売をしていて、時代もあってか裕福だったらしい。
大正14年生まれのおばあさんは妹と一緒にセーラー服を着て、平安女学校へ通っていたというのだから、相当ハイカラである。

おばあさんはお見合いで14歳年上の夫の祖父の元へ19才で嫁いできた。琵琶湖疎水を舟で遡って大津へお嫁入りしたそうな。途中のトンネルは暗くてコウモリが怖かったと話してくれたことがある。

御所近育ちで、女学校出のおばあさんはそれはそれは気位が高かった。
同居している義伯父一家は経済的援助もあってか、一家の長はおばあさんだった(おじいさんは夫が高校生の時に亡くなっているのでわたしは会ったことはない)。

嫁のあき(仮名)義伯母を「あき」と呼び捨てにしていたのには、初めは正直驚いた。私の母は姑には「ちゃん」付で呼ばれていたのでなおさらである。

あき伯母は愛媛のみかん農家出身でおじいさんとおばあさんの縁組で大津へ嫁いできた。おばあさんの家に行くといつもぽんジュースを持たせてくれた。おばあさんは口には出さなかったが、あき伯母をいなかもんと思っていた節がある。
「みちこは着物を畳めるけど、あきは着物一枚畳めないで嫁にきた」
みちこ(仮名)はわたしの義母である。つまりはおばあさんの娘だ。
わたしには姑に仕えることは無理だなとその時思った。

夫はおばあさんの初孫で、特にお気に入りの孫息子だった。
おばあさんの隠居部屋に頻繁に顔を出し、旅行へもよく連れて行っていた(費用はすべておばあさん持ち)。
おばあさんはあき伯母の悪口を夫によく言っていたらしい。もっとも娘(みちこ)の愚痴も同じくらい言っていたらしいが。
だが、おばあさんはわたしが一緒の時には決して嫁の悪口は言わなかった。こういうところが京女なのだ。

娘を養子に迎えた我が家へお祝いを持ってきてくれたのが、おばあさんの最後の外出だった。
それからアッという間に悪くなり、寝たきりになった。あき伯母は介護のためにパートをやめた。
伯母はヘルパーの手を借りることは一切なかった。おばあさんが嫌がったからだ。
最晩年、もう実の娘のことも分からなくなっていたおばあさんは伯母を「おかあさん」と呼んでいた。

通夜の時、あき伯母にお悔やみと労いの言葉をかけさせてもらった。
あき伯母は言った。
「もっと看たかった。せっかくパートもやめたのに。もっともっと看たかった」

おばあさんとあき伯母の集大成のことばだった。

聖アグネス教会は素朴な教会だった。
セーラー服を着た娘時代のおばあさんの姿を見たような気がした。




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