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成人式が終わった後に振袖を着る選択があってもいいと思う

1年前、「私はみんなが参加する成人式は嫌いだ」という記事を書いた。

最近、この記事にぼちぼち“スキ”が付いているので、この記事にたどり着いた成人式に関していろいろ思うことがある人と1年前の自分へのアンサーnoteとして想いを書いていきたいと思う。

去年の成人の日と今年の成人の日の世の中の雰囲気はかなり違っていて、今年の成人式について、多くの自治体は「成人式を中止する」という決断を行っているそうだ。

「成人式中止」というニュースを見て、「ああ、生まれる年が1年遅ければなあ…成人式に参加“しなかった”じゃなくて“できなかった”になるから、周りから奇妙な目で見られることもないのにな~」なんてどこかから批判の槍が飛んできそうな考えが浮かんできた。

しかしだ、私自身が成人式に参加する価値がないなと思っているだけで“成人式に参加したいと考えていた人”や“成人式で会いたい人がいる人”が今年の成人式が中止になったことによって、苦しい気持ちになっていることはどうも他人事には思えず、私も苦しい気持ちである。

「成人式中止」が「振袖を着ることができなくて悲しい」ということであったら、おすすめしたいことがある。

それは、「写真館やフォトスタジオで振袖の写真を撮ってもらう」ことだ。

私はこの記事の冒頭に引用した記事にも書いてある通り、「振袖を成人式で着ることはなかった」

しかし、昨年の11月5日に写真館で振袖を着て写真を撮ってもらった。

12月に21歳になってしまうので、その前に写真で自分の20歳の姿を収めておきたかった。

振袖の写真代は、何度かの成人式の振袖に関する母との喧嘩の末、1/3の費用は母と祖父が支援すると話してくれて、残りは自分がバイトをして貯めたお金で賄った。

自分自身気持ちのどこかで「自分たちの代の成人式が終わったのに振袖を着ていいのだろうか」と後ろめたさがあった。

また、写真館の人からも「今年の成人式はどうなるんでしょうね~」「(成人式)当日の着付けとかはもうご予約されていますか?」という風に“2021年に成人式がある人”だと勘違いされているなと感じることが何度かあった。
でも、初めて振袖に手を通した時の胸のトキメキは想像以上で「いつ振袖の写真を撮るかだなんてたいして気にしなくてもよかったのかもしれない」と感じるほどだった。

ちなみに当日は振袖以外にも袴とドレスも着ることができたので、憧れだった「はいからさん」っぽい写真とピンクのふわふわしたドレスを着て終始ウキウキしていた。

20歳の自分を晴れやかに祝うことができて嬉しくて、自分で自分を祝う機会を与えられたことが少し誇らしい日だった。

世の中の風潮は、「成人式の日に振袖を着る」というものであると肌で感じているが、「成人式が終わっても、別日に振袖を着てもいい」という人もいるのだと伝えられたらなと思って今回のnoteを書いた。

「成人式が無くなったから、振袖来たいけど着れなかった」という人や「成人式が終わっても振袖を着ていいのだろうか?」という人には是非、一生に一度の二十歳を写真に収めてみることを「成人式」に関する選択肢の一つにおすすめしたい。

(コロナ渦じゃなかったら、“一般的な成人式ではない成人祝い”の「ひとり成人式(一人旅)」についてもおすすめしたかったものの、先行き不透明な世の中なので今回は割愛した)

ここから先は少し暗い話になるから、気持ちよく読み終わりたい人は上まで読んでからページバックをすることをおすすめしたい。

振袖の写真撮影当日までに母と私は「撮影当日に母は振袖を着た私を見に来るのか、来ないのか」で何度も揉めていた。

母:「休みが取れない。私は忙しいの」

私:「娘の振袖姿に興味ないのね、、」

母:「いや、別にそういうことじゃないけど」

私:「じゃあ、どういうことなの?」

母:「あんたと話していると頭がいたくなるわ(いつもの逃げセリフ)」

私はかなり落ち込んだ。

自分の周りの大人に「自分の親に振袖を着た姿を見せるのは親孝行みたいなものだよ」といわれていたこともあって、自分なりに振り袖姿を見せることは一種の親孝行のものだと思っていたが、母は違ったのだと痛感したし、返す言葉を見つけられない母の様子を見て「ああ、私の成長なんてほんと興味ないんだなあ、まあ仕方ないようなあ、娘のハレ姿に興味があればそもそも去年“成人式に出るつもりなの?振袖代用意してないよ??”なんて言われないよなあ」とこれまたウジウジ悲しんでいた。

結局、撮影当日は母の夜勤明けでもあったため、母が夜勤明けに見に来るということになった。

写真館の人と撮影前の当日の打ち合わせで「ご家族も一緒に写真に写りますか?」という話になり、その時まで予定していなかったが、なんとなく母と祖父と一緒に写った写真も欲しいと思い、「お願いします」と話した。

着付けをしてもらう間、母は母自身の支度と祖父を連れてくるために一旦家に帰った。

着付けをしている間の出来事も、私の心を少し引っ搔いた。

美容師さんにヘアセットをしてもらっている時に、

美容師さんの話す話が、上記に述べた「2021年に成人式がある」という前提で進んでいると気づいたときに「そうなんですね~」とどこか他人行儀のような反応を取っていた。

その反応の異変に気付いた美容師さんは私が2021年に成人する人ではないと気づいたようで、その美容師さんは(多分悪気がないけれど)「何故今、振袖の写真を撮ろうと思ったのかという話」を振ってきた。

そこで私は、「親から振袖の写真代をもらえないと想定していなかったから、バイト代を貯めて今回写真を撮ったこと」を話した。

すると、「お母さんはニッキーさんの振袖姿に興味がないんでしょうね~」と話してきた。多分、悪気はなかったはずだ。そう信じたいと思う。

なんともいえない気持ちになった。

母が私の振袖姿に興味がないことは、わかっていた、わかっていたはずだ。

でも心のどこかで、自分が誤解しているのだと、「本当はあなたのことを気にかけているけど、あなたのお母さんはあなたに対して、ちょっと不器用な表現しかできないのよ」と言ってほしかったのだと思う。

撮影はじめに母は、スマホを手にして私を撮影しようとしていた。

しかし、撮影が始まる前に私は母に「スマホでの撮影はできないらしいから、やめてね」と話していたからこそ、スタッフの方が「すみません、スマホでの撮影はおやめください」と話していた時にスタッフさんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

家族撮影が終わった後に、母と祖父は撮影する幕の横にある椅子に座っていたが、振り袖の撮影には興味がないという雰囲気で本を読むかスマホをいじるか、祖父に至っては「まだ終わらないのか?」という始末。

自分が撮影してもらっている傍ら、スタッフさんに気を遣わせてしまっているのが横目に入って、途中上手く笑えていなかった気もする。

母や祖父が「振袖姿に興味がない」のだということが嫌というくらいよくわかった時間でもあった。

そんな時に美容師さんからはっきりと「あなたに興味がないんだと思う」と言われたことを思い出して、心を引っ搔かれたような痛みを感じた。

撮影後も「写真はいつできるのか?」という話ばかりで、生の振袖姿には興味ないのね。写真がいいのね。と卑屈な気持ちに包まれたが、今となっては「あの日の私を目に焼き付けてないだなんて、勿体ないなあ」という気持ちでもある。

自画自賛と言われてもいい、間違いなくあの日の私は写真よりも綺麗だったと思う。

「綺麗だよ」も「可愛いよ」も欲しい時に欲しい人から言われなくて悲しいことなんて今までで何度もあったけど、そのたびに少なくとも自分だけは「綺麗だよ」も「可愛いよ」も自分自身にかけてあげてきた。

言葉だけに限らず、今回の“振袖”に関することもそうだ。
振袖を与えられなかったのならば、自分でお金を工面して振袖を着る機会を手にした。

きっと自分以外にも「家族から振袖を与えてもらわず、自分でお金を稼いで振袖の写真を撮った人」や「家族から欲しい言葉をかけてもらえなかった人」がいると思う。

その人の悲しさ・寂しさ・苦しさは、とても深いものだと思うし、駆け付けられる距離ならば「成人おめでとう」って言葉もかけて「あなたは独りじゃないよ」っていう気持ちも温かく伝えたい。

“成人式”や“振袖”の話は、嬉しいよりも苦しい、辛いの方が比重としては多くたくさん涙した場面があったけれど、当たり前が当たり前じゃないという気づきを得ることができたし、たくさん傷ついた分、やさしい人になれるような気がしている。

そして最後に、成人式に行けなかったり、成人式用の振袖が準備できなかったり、後日自分のバイト代とかで振袖の写真を撮ったっていう人たちが私のnoteにたどり着くかどうかはわからないが、このnoteにたどり着くという前提でメッセージを書きたいと思う。

「振袖は家族から与えられる(親に振袖を買ってもらえたり、レンタル代を出してもらう)ということが当たり前じゃないからこそ、誰も責めれない上に、なんだか自分1人だけが自分の成人を祝っているような悲しい気持ちになっているかもしれない。「何故私だけ」って周りの同じ年の子たちと比べて泣いた日もあることでしょう。泣いているあなたの側に私は駆け付けたくてもなかなか駆け付けられないのが現実だし、駆け付ける前にそもそもあなたのことをよく知らないけれど、それでもあなたの成人を温かくお祝いしています。世間では“当たり前”と思われていることが自分は得ることができないということを目の当たりにして悔しく思ったり、悲しくなっても、現状や自分の感情と向き合うことのできるあなたの強さは尊いもので、自分の幸せや愛し方を自分の力で掴むことができている、もしくは掴もうとしているあなたのことをとてもステキな人だと感じます。そして、そんなステキなあなたといつかどこかで出逢えたらいいなと思っています。」

周りと一緒じゃなくても大丈夫。

よろけながらも、たまには誰かの力を借りながらも、一歩ずつ、少しずつ前進していけます。

改めて、成人おめでとう。あなたのこれからの人生に幸あれ。

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