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フライト・モード


「皆様、ただいま飛行機のドアが閉まりました。携帯電話は、電源をお切りいただくか、フライトモードにお切り換えください」

 聞き馴染んだそのアナウンスに、清司は携帯をフライトモードに変更した。やがて機体がゆっくりと後退し始める。

「見て! 手、振ってる!」
 後ろのほうで男の子の声がした。窓の外に目をやると、整備士が並んでこちらに手を振っていた。ゴールデンウィークの機内は、どこか華やいでいる。

「ねぇ」と隣の席の和美が乾いた声で呼びかける。
「うん?」
「どうして、携帯電話の電波を発しない設定って『フライトモード』とか『機内モード』って言うの?」
「どうしてって……今みたいに、飛行機の中で使うからだろう?」
「でも、ほかのところでも使うじゃない。映画館とか、テスト中とか。だったら、『映画館モード』とか『テストモード』とかでもよくない?」
「『テストモード』って、携帯電話をテストするみたいじゃないか?」
「まぁ、確かに」

 そんなたわいもない会話をしているうちに、飛行機は滑走路に到着する。ポン、ポン、ポン、ポンと合図が四回鳴り、まもなく離陸することを知らせる。ジェットエンジンの唸りが増し、飛行機が加速を始めた。体がシートに押し付けられる感覚があり、やがて前方がふわりと持ち上がる。

 窓の外の空港が、車が、建物が、船が、海が、みるみる小さくなっていく。飛行機が左へ傾き、突き抜けるような蒼穹が眼前に広がった。

 涙が出そうだった。この景色が、なんだか懐かしかった。感傷に浸るのを嫌うように、清司は目を閉じた。


  *   *   *   *   *


「皆さま、本日のご搭乗、誠にありがとうございます。機長の……」

 気がつくと、機長がアナウンスをしていた。眠ってしまったようだった。少し先にあるモニターに目をやる。飛行機はすでに下北半島を出ようとしていた。

「俺、眠ってたか?」
 清司は和美に尋ねる。
「えぇ、とても気持ちよさそうに。家にいる時よりも、飛行機の中のほうが落ち着くみたいね」と和美が静かに笑う。

「えぇ、個人的な話で大変恐縮なのですが……」
 月並みのアナウンスを終えたところで、機長がどこか慣れない様子で続けた。

「本日のこの便には、私の大先輩のキャプテンにお客様としてご搭乗いただいています。その方は、つい先月、長きに渡るパイロットとしての職務を終えられました。生涯における飛行時間は二万七千時間。日数に直しますと、千百二十五日。実に、三年以上を空の上で過ごしたことになります。この記録は国内歴代最長です。厳しくも温かい先輩がいなければ、今日の私はなく、こうして皆様と空の旅をご一緒することもできませんでした。私がたとえ三万時間飛行したとしても、彼の背中に追いつくことはありません。その知られざる偉業をどうしても皆さまにお伝えしたく、お時間頂戴いたしました……北海道はいまが桜の見ごろです。この旅路が、皆さまにとって素晴らしいものとなることを願って、ご挨拶と代えさせていただきます」

 アナウンスが終わると、どこからともなく拍手が聞こえた。


  *   *   *   *   *


 飛行機がスポットに入り、停止する。シートベルトサインが消え、乗客が立ち上がる。ドアが開き、列が動き始めても清司は席を立とうとはしなかった。

「ちょっと、いつまで泣いてるのよ」
 和美が茶化すように言う。その目は赤く腫れていた。
「泣いてなんかいねぇよ」と清司は強がった。

 最後の乗客となった二人が、降り口へと向かう。ドアの脇に、見慣れた顔が微笑んでいた。
「長い間、お疲れ様でした」
 清司が照れくさそうに、その肩に手を置いた。
「お前、アナウンスはうまくなったが、着陸は相変わらず下手くそだな」
「操縦してたの、こいつですよ」
 そう言って機長は、横で苦笑いを浮かべる後輩を指さした。
「お前の教え方が下手な証拠だ」

「キャプテン!」
 タラップに降りた清司を呼び止める声がした。「本当に、ありがとうございました!」
 清司は振り向くことができずに、手をあげて応えた。


  *   *   *   *   *


「フライトモード、解除ね」と和美がつぶやく。
「さっきしたよ」
「あなたのフライトモードよ。これからは、地に足の着いた生活ね」
「なに、うまいこと言ってんだ」と清司が言う。「『テストモード』は終わり。これからが人生の本番モードだ」
「あら、あなたこそお上手」と和美が笑う。

「ねぇ」
「うん?」
「『あなたのパートナーは誰ですか?』って聞かれたら、何て答える?」
「なんだよ、それ」
「私? それとも飛行機?」
「そんなの、決まってんだろう。聞くな」
「あら、そういうのって、はっきり言ってくれなきゃ伝わらないものなのよ」
 和美は唇を尖らせた。
「……たまには携帯電話をフライトモードにして、ゆっくり映画でも観る。そういう人生もいいんじゃないかと思ってる」
「ふふっ、素直じゃないんだから」

 清司の手を優しく握った和美の手を、清司がきつく握り返した。


『フライト・モード』 <了>

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