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第5回新潮ミステリー大賞受賞作から「ミステリーとは何か」を考える

裏稼業として人の記憶を取引する「店」で働く銀行員の良平と漫画家志望の健太。神出鬼没のシンガーソングライター・星名の素性を追うことになった悪友二人組は、彼女の過去を暴く過程で医者一家焼死事件との関わりと、星名のために命を絶ったある男の存在を知る。調査を進めるごとに浮かび上がる幾多の謎。代表曲「スターダスト・ナイト」の歌詞に秘められた願い、「店」で記憶移植が禁じられた理由、そして脅迫者の影――。謎が謎を呼び、それぞれの想いと記憶が交錯し絡み合うなか辿り着いた、美しくも残酷な真実とは? 大胆な発想と圧倒的な完成度が選考会で話題を呼んだ、第5回「新潮ミステリー大賞」受賞作!

 伊坂幸太郎、貴志祐介、道尾秀介という錚々たる(そして私が好きな)ミステリー作家たちが選考委員を務める「第5回新潮ミステリー大賞」を受賞した作品だ。

 結論から言うと、とても面白かった。

 上記のあらすじを読んだだけでもわかるように、「記憶を売買する謎の店」「神出鬼没のシンガーソングライター」「医者一家焼死事件」等々、そのほかあらすじにはないが「ナイトと呼ばれる男」「スワンプマン」「痴呆症の妻を抱える町工場の社長」「ストーンペイント」「オーディンション番組での不正事件」等々、実に多くの要素に巧みなつながりとストーリー上の役割を持たせ、それを主人公の二人とともに読者にも紐解かせることで濃密なミステリーとして成立させている。

 それと同時に、日本中を旅するシンガーソングライター・保科ひとみが歌う「スターダスト・ナイト」を通して、彼女と彼女の幼なじみを中心とした人間模様を描くヒューマンドラマとしての側面も多分にある。

 これだけのものを詰め込みながら、ここまで完成度の高い作品にまとめ上げる作者の技量には感服する。例えるなら、焼き鮭と麻婆豆腐とアクアパッツァとハンバーガーとボルシチを食べたい人たち全員を、一つの料理で完全に満足させる。そんな感じだ。

 私はこの作品に対する先の三名の審査員の方々の講評を読んではいないのだが、ネット上で読者の意見を見るにつけ、おもに二つの点において評価が分かれているように感じる。


1.「記憶を売買する」という設定は禁じ手か

 上のあらすじを読んで、「うん?」と思われた方もいると思う。私はあらすじは読まなかったが、本文を読み進めていくなかで「うん?」と思った。興ざめしたとか、腑に落ちないとか、そこまでの感覚ではない。小石が靴の先に引っかかった程度の違和感……そう、違和感なのだ。

 「人の記憶を取引する『店』で働く……」とあらすじにごく自然に出てくる。ストーリーの中でも、当然主人公たちは店の存在を訝しむものの、どちらかと言えばすんなりとその設定を受け入れ、その後の展開も当然のようにそれを前提に進み、結局最後まで走り切る。

 終盤で「実はカクカクシカジカという科学的トリックで記憶を取引しているように錯覚させているだけでした!(なるほどですねー)」的な種明かしも、「という記憶自体が魔術によって植え付けられた虚構なのです!(え、まじで?)」というもはや何に驚けばいいのかもわからないオカルト的なオチもない。作中では、「人の記憶を取引する『店』」は実在するのだ。マックやセブンみたいに街中にあふれてはいないけど、非合法な賭博場や風俗店と同じように知る人が知るレベルではある、ことになっている。

 果たして、これを良しとするのか。そこを議論したくなる気持ちはよくわかる。

 古畑警部補が密室殺人の謎を一生懸命解こうとしているのに、「実は私は触れたものを一時的に液状化させることができる特異体質なのだ!」と犯人に言われたところで、田村正和は眉間にしわを寄せながら「なるほど、それですべての謎がとけました」とは言わないだろうし、ドラマの冒頭でスポットライトを背後から浴びながら「犯人はこの世のものとは思えない能力を保持していたのです」と得意げに言われていたとしても視聴者は納得しないだろう。

 これが名探偵コナンだったらどうだろう。「じゃあ、その力を利用して壁に穴をあけて逃げたんだね! 阿笠博士もびっくりだね!」なんてことはたぶんコナン君は言わないし、やはり読者も納得しない。でも一方で、工藤新一は不思議な薬で子どもの姿にさせられているし、コナン君のスケボーは重力を無視しているし、靴から出てきたサッカーボールをメッシも真っ青な命中率で犯人の頭に直撃させる。

 つまり、左のはかりに「現実」があり、右のはかりに「虚構」がある天秤のどのバランスのうえでストーリーを語っているのか、という作者と読者の認識の一致(あるいは不一致)の問題なのだと思う。

 古畑任三郎の天秤は常時左に傾いている。コナン君は謎解きに関しては(個人的にはかなり無理はあると思うが、少なくても超能力や超常現象を利用しないという点において)左に傾いているが、周辺の設定や犯人逮捕の演出などはかなり右に傾いている。そして、読者もそれを理解している。そういうものだと思って楽しんでいる。

 話が逸れたが、おそらく本作に関して「記憶を取引する」という設定に異議を唱えている方々は、それまで左に傾いていた天秤がこのポイントに置いてだけ右に傾くことに不自然さと物語の崩壊を感じているのだと思う。

 ちなみに、私の個人的な意見を述べさせていただくと、先に「違和感」と言ったように「あぁ、ずっと左に傾いていると思ったけど、右に傾くこともあるのね」という認識の変換を迫られたことに少なからず動揺はしたが、認識を修正してしまえばそれほど気にはならなかった。それもひとえにそんな虚構さえも自然にストーリーに取り込んでしまう本作の完成度の高さゆえだと思う。


2.ミステリーに「虚構」はどこまで許容されるのか

 一点目と通ずるところがあるが、賛否が分かれる理由の二点目は、上記で述べたような明らかな「虚構」が内在する(しかも、それが物語の重要な鍵を握る)小説をミステリーに分類してよいのかという「ジャンル分け」の問題だろう。

 ミステリーとは何か。その答えの一つは、エドガー・アラン・ポーが生み出し、コナン・ドイルが発展させたいわゆる「推理小説」ではないかと思う。謎が提示され、名探偵がそれを論理的に推理していく。そう、探偵はあくまで「論理的に」推理し、事件を解決に導くのだ。同じ時刻に起きた二つの殺人事件が同一犯の犯行だとして、その方法が「猫型ロボットがポケットから出したピンクの扉を抜けると、あら不思議」ではいけない。

 しかし、その一方で英語の「mystery」の本来の意味はもう少し広い。

mys‧te‧ry
an event, situation etc that people do not understand or cannot explain because they do not know enough about it
人知が及ばないために、人々が理解や説明ができない出来事や状況
――ロングマン現代英英辞典

 語源はギリシャ語であり、元来の意味は「神の隠された秘密」「人智では計り知れないこと」だという。

 少なくとも、どんなに優れた頭脳の持ち主であっても一人間である名探偵が論理的に解き明かせる謎よりも、くぐった瞬間に別の場所に移動できるピンクのドアや記憶の取引が可能な店のほうが、元来の意味には近い気がするがどうだろうか。

 本作に関して言うと、新潮ミステリー大賞は応募要項に「広義のミステリー」とあり、これの意味するところは「いわゆる推理小説でなくてもいいよ」ということだと私は理解している。謎が提示され、それが解かれる形式をとっていれば、必ずしも「100%論理的でなくても構わない」と。

 そもそも審査員の伊坂幸太郎は、デビュー作でいきなり喋るカカシを登場させ、その後も人間味のあふれる死神や思考する自動車を何のためらいもなく(かどうかは、わからないが)物語の中心に据えている。その時点で推して知るべしであり、受賞作が決まったあとにその点について批判するのは少し違う気がする。上流のダムが決壊しているのを放置していながら、下流の堤防が低すぎると言っているようなものだ。あるいは、松岡修造がリポートしているのを知っていながら世界水泳を観て、「リポートが暑苦しい」と文句を言うようなものである。松岡修造がリポーターの時点で世界水泳は暑苦しいのだ。そういうものなのだ。


3.ジャンルと作品における「鶏」はどちらか

 ここでの鶏は、「鶏が先か、卵が先か」の「鶏」である。

 これは、私がかねてから思っていたことであり、文学の分野だけではなく森羅万象に言えることなのではないかと思うのだが、「ジャンル」や「カテゴリー」「分類」というのは事象があったうえでされるべきであると思う。何かが起こる。何かができる。それが既知の事象のどれに近しいかを考える。既存のもののどれとも違うものなのであれば、新種であり新しいジャンルが生まれる。

 当たり前と言えば当たり前なのだが、往々にして逆の議論がなされることがあるように思う。つまり、卵(=ジャンル)ありきの、枠に作品をはめる行為だ。「これはミステリーではない」「こんなの邪道だ」 確かに、ミステリー文学賞にまったく謎解きの要素がない作品を応募するのは論外だが、謎解きの要素がストーリーの中心に春を待つ大河みたいに横たわっていれば、多少論理的に説明がつかないことがあってもよいのではないだろうか。ミステリーの中にそういうジャンルを作ればいいと思う。

 ジャンル分けというのは、箱の中身が何なのか誰が見てもわかるようにラベルを貼る行為だ。スーパーに並べる精肉に「鶏肉」「牛肉」「豚肉」とラベルを貼るのと同じだ。仮にラベルがなかったとしてもそれは鶏肉であり、128円/gであることに変わりはないのだ。

 何が言いたいかというと、「創作」とはそもそも自由な発想に基づいて行われるべきであり、特定の、あるいはどのジャンルにも属さないことが作品の価値を損ねるようなことはあってはならないということだ。

 なので、この中途半端で何を言いたいのかよくわからない書評もそういう書評のジャンルだと思って、大目に見てほしい。


 最後に、次回「第7回新潮ミステリー大賞」は来年の三月末締切なので、腕に覚えのあるミステリー好きの方は参加してみてはいかがだろうか。だが、予め言っておきたい。私も応募しようと思っている。しかも、かなりの自信作だ。正直なところ、みなさんに勝ち目はないと思う。そのくらい出来がよい。ただ一つだけみなさんに勝機があるとすれば、私の自信作はまだ私の頭の中にしかなく、一文字たりとも文章にはなっていないということだ。


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