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Re: レイン・カーネーション

「もう一杯くれ」
 リカルドが虚ろな目で言った言葉に、バーテンダーは微笑とともに眉をひそめた。明らかに飲みすぎていた。
「飲みすぎじゃないのか?」
 そう声を掛けたのはバーテンダーではなく、その時に店に入ってきたザックという名の若い男だった。リカルドがちらりと目の端だけで見やる。
「まだ宵の口だ」
「時間の話をしてるんじゃない。グラスの数のことだ」
 ザックが隣のスツールに腰を下ろす。置かれたジン・ロックを、リカルドよりも早く手にした。
「代金はこいつに付けてくれよ」
 舌打ち混じりに、リカルドが言った。

「ひどい演奏だったぜ」
 ザックが口の端に皮肉な笑みを湛えて言った。「せっかくのいい曲が台無しだ」
「曲を作ったのも俺だ」
「知ってるさ。あんたは優れた作曲家だったし、優れた演奏家だったし、優れた歌い手だった」
「ふん、すべて過去形か」
「あんたが自分で潰したんだ。酒とタバコとドラッグでな」
「潰したんじゃない。終わりにしたんだよ」
「なぜ、自ら終わらせる必要がある?」
「自分で終わらせなきゃ、誰も終わらせてくれないだろ?」
 沈黙が訪れた。たった一つだけある窓の外はとっぷりと暮れ、すでに深い闇があった。

「どの曲が好きだ?」とリカルドが吐き捨てるように言う。
「あ?」
「俺の曲で、どれが好きだ?」
「そうだな……」
 ザックは束の間思案した。「『薄紅色の雨』」
 リカルドが笑う。
「ありゃ、インストゥルメンタルだ」
「だからいい」
 今度はザックが笑う。
「だいたい、俺が作った曲じゃない」
「どういう意味だ?」
「あれは、駆け出しのころに、マンチェスターの公園で出会ったギタリストから五ポンドで買った曲だ」
「あんたにしては、よくできたストーリーだな。ロックスターっぽい冗談に聞こえる」
 ふん、とリカルドが鼻を鳴らす。
「ロックスターってとこだけは、違いない」

「音楽は世界を変えられる」
「あ?」
「たぶん、あいつはそう信じてたと思うんだ」
「あいつ?」
「俺に『薄紅色の雨』をくれたギタリストだよ」
「ずいぶんと青臭い野郎だな」
「笑うか?」
「ガキじゃねぇんだ。それで今晩の飯にありつけるなら苦労はねぇさ」
「お前にしては、まともな意見だな」
「でも」とザックはため息とともに言う。「そいつがただの夢想家だと言いきれるだけの根拠もないけどな」

 リカルドはしばらく黙して思いに耽っているようだったが、やがて飲みさしのジン・ロックを素早く奪うと一気に飲み干した。トンっと勢いよくテーブルに置いた拍子に、残った氷が音を立てた。
「あの曲はお前にやる」
「あ? やるって、どういうことだよ?」
「明日からお前のもんだ。客前で弾くなり、アレンジするなり、人にくれてやるなり、好きにしろ」
 そう言って席を立つ。一歩よろけたところをザックが左手で受け止めた。

「いいか、息子よ、ゆめゆめ忘れるな」
 やはり酔っ払っているのか、突然リカルドが店中に響き渡る大声を張り上げた。「すべては円環だ。巡り巡っていつかは戻る。俺はあいつから『薄紅色の雨』を買った。あいつの夢を買ったんだ。そしてグラストンベリーで、世界中の街角で、この寂れた酒場で、みんなに夢を与えてきた。今度はお前の番だ。お前は誰に、何を与える? 俺が託され、お前に託した夢を誰に託す? いいか、すべてはお前の選択だ」
 それからザックの肩に手を置き、落ち着きを取り戻した声で優しく言った。
「いつかは、あいつに返してやれ」

 リカルドが店を出ていくと、静寂が戻った。バーテンダーが新しいジン・ロックを置いた。
「悪いな」とザックが、礼とも詫びともつかない言葉を返す。
「寂れた酒場のただのジン・ロックです」
 ザックは気まずそうに笑い、「悪いな」と今度は明確に謝罪とわかる言葉を口にした。
「お父様はもう十分返されていると思います」
「あ?」
「あの曲で世界が変わることはなかったかもしれない。でも、世界中の人に夢を与えた。もしかしたら、音楽は世界を変えられるのではないかという夢を。たぶん、あの曲を作ったギタリストもそのうちの一人です」
 ザックはジン・ロックのグラスを軽く揺すると、「だといいな」と呟いた。

「弾きますか?」
 バーテンダーは、店の隅に立てかけてあるギターを顎で示した。ザックは少し考えたあとに、首を振った。
「いや、やめておく。『明日からお前のもんだ』と言ったからな。あの曲は、今夜はまだ親父のもんだ」
 ザックは残ったジン・ロックを空けると、腰を上げた。
「本当に、お父様は偉大なロックスターであり、立派な父親です」
「前半は賛成だ」
 ポケットからポンド紙幣を何枚か出し、テーブルの上に置く。踵を返したところを、バーテンダーが呼び止めた。
「多すぎますよ」
「偉大なロックスターの分だよ」

 店を出ると、夜風が頬を撫でた。見上げた空に星はなかった。
「星は消えゆく。でも心配しなくていい。新しい星がまた輝くから」
 そう小声で独り言ち、すぐに後悔した。

 ――やっぱり、あの曲は歌詞がないほうがいいかもな。


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