あたしが馬鹿で

「目張りして」
「メバル?」
「め、ば、り!隙間埋めるねんって」
「うん、密閉空間をつくるわけやな」
ふたりぶんの声がソファの匂いに積もって埋まる。外は今にも雪に変わりそうなほど冷たい雨のお天気だ。
「やっぱり七は頭いいなあ、科学者に」
ガムテープをびびびびと伸ばす音が、赤ちゃんに渡したビデオテープみたいに空気を切り裂いた。
「なれたのに。」
「語彙を褒めるなら文学者とか作家とか、文系にせえや」
「文系のお偉いさんがいまいち、わからへん、あ、ごめんくちゃくちゃになった…」
「ええよ別にだれに見せるでもないんやから」
七は春の手元を見る。たしかにガムテープはまっすぐ貼られていないしそれどころか、粘着面が重なってしまっていていわゆるガムテープの悪い面が発揮されている。ふつうなら見えない物事の悪い面を発揮させるのは春の得意なことだ。
「七しか見いひんし、七だけがあたしに怒らへんもんね」
春はふたりで酸素を交換した日のことを思い出した。春の部屋は散らかっているのでそういうことはいつも七の部屋でする。小学校のころは、お互いの鼻をつまんで口を口で塞いで、いつまで息が続くかの、単なる実験だったけれど(他にもベロに味があるかの実験とかもやった)歳を重ねるにつれてそうじゃなくなったあの酸素交換の儀式。いつまでだってああして、息をしていられたのにどうして、ふだん歩くとき、学校で、家で、電車で、テレビをみるとき、そうしていなかったのだろう。
「おれだけが春に怒らへんような世界なんて糞食らえやな」
ふたたび背中を向けて反対側の目張りを始めた七に春はでもうまく言葉を返せない。こういうことはよくある。
それは私にとってだけなのだ、世界が糞食らえなのは、私に向かってだけなのだ、と、言葉にならずに感情は、綿菓子みたいに春のなかを、紫色や青色になってぶわっと膨れて心臓を包み、湯葉みたいにぴったりはりつくもので息がしにくくなって結局どうしても言葉にすることは、春にはいつも難しくて口を閉ざしてそういうときにも七は本当のことをわかってくれている気がして、しかしそれは春の甘え以外のなにものでもなかった。なかったことが最近になってわかった。
春は、もうおしまいだ、という気持ちになった。もうおしまいだ、と思って、このおしまいに、七を引きずりこむ私をきっと七のお父さんもお母さんも許しはしないんだろうなと思った。
「春、ラジオ流すか?おまえ寝るとき無音やと寝られへんやろ」
七と春はきょう、自殺をすることにしている。
車なんて持っていないからふたりでバイトをしてお金を貯めて、中古車を買った。その辺の道端に売っているような一台何十万とかのやつだ。
七も春も免許を持っていないから、山の奥まで来るのにずいぶん冒険感があった。警察に捕まったら元も子もないので、七は私有地でこっそり実家所有のトラクターを運転したりして練習していたけれど、目線の高さもぜんぜん違うし、レバーの位置も進む速度もとにかく勝手がぜんぜん違ったので中古車を何度もガードレールにぶつけた。そのたびに剥がれていくぼけた色の赤い塗料はパンのかけらみたいにふたりの道筋を示していく。
うまく死ねないと困るので、崖下への転落は避けたい。そこで道路のど真ん中、運転手を試しに交代してみると、安心して、後続車なんて何十km先にしかいないような田舎の山だ、動物的勘の持ち主である春の方が運転がうまかった。
そういえば自転車だって春の方が先に乗れたっけな、七の父親は悔しがっていたけれど、でもそれは七の頭の中だけに留めておく思い出にしておいた方がよさそうだった。春に言うと泣いてしまう。泣いてしまうだろう。きっとたぶん。春は忘れているだろうから、俺が覚えていればいい。

「焼肉すればよかったなあ」
すっかりシートを取り払った後ろの席に移動して、ふたりで七輪を見下ろす。焼肉をするには網をのせるところが狭い七輪だ。
「うん…七、きのう何食べた?」
「おまえと一緒に食べたやん、角のところのラーメン」
「そうやった、ねえ、七の膝の上に乗りたい」
「いいよ、あ待って」
ジャンパーを脱ぐ。高校生のときから着ている上等のやつだ。そのしたのネルシャツはこのあいだふたりでユニクロで買ったやつ。発見されたときにお揃いだと恥ずかしいので春は違う柄のネルシャツを着てきていた。それでもお揃い感は否めない。
胸ポケットから七がとりだしたのは睡眠薬だった。母親の化粧台から一ヶ月前にくすねた。
「はい春、口開けてあーん」
「あーん」
ぽいぽいぽいぽいぽいっ、適切な量がわからないので春の口には五粒入れ、自分の口には七粒入れる。
コーヒーを運転席に忘れたので取りに戻ると、それだけなのに腋の下に汗をじっとりとかいた。もう車内はずいぶん暑くなっている。外の雨は雪にはならない。じくじくと降る雨は春には嬉しく、七にはただただ鬱陶しい。
「無糖でごめん、お茶持って来ればよかったな」
「あの青い水筒にいれて?」
「そう、生肉とおにぎりと水筒、持ってくればよかった、おいで」
苦いものと酸っぱいものと硬いものが苦手な春。
七が手を広げて受け止めてくれたので七輪を転ばさずに移動することができた。七が手を添えてくれれば、用意してくれれば、となりにいてくれさえすればできることはたくさんたくさんたくさんあるのだ。たくさんある。
春は七にしがみつく。七は早くも眠くなる。睡眠薬など飲んだことがなかったが、こんなふうに何も考えずに眠れるならだれか教えてくれてもよかったのにな、と思って、あ、ラジオをつけるのを忘れてた、春も早く眠れればいいのに、と思う。俺にしがみつく春、こんなに強い力が残っているならまだ眠くないのだろうな、お猿さんみたいだな、カンガルーみたいだな、コアラみたいだな、オーストラリアだ、思考の糸は紡がれる、しかし長く続かずぷつぷつ切れ始める。

春は睡眠薬を飲んでいなかった。七が運転席に行った隙に吐き出して拳の中へ握っておいてあった。七の意識が朦朧とし始めたのを感じて、痛む頭を無視しながら、その高い鼻にガムテープを貼った。鼻の穴ふたつとも網羅するために三重に貼った。下から見ても横から見ても綺麗な形の七の鼻。
それから長いキスをした。酸素交換の儀式だ。このキスは二度と終わらない。愛の交換の儀式だ。
あたしがもっと賢ければな。七と生きれたはずなのに。


おわり

#ショートショート #小説 もどき

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