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テレホタイムにイラストサイトでピーヒョロロ

この記事は、「インターネット老人会 Advent Calendar 2023」17日目の記事です。

インターネット老人会 Advent Calendar 2023 – Adventar

インターネットとのなれそめ(1998)

俺とお前とインターネットということで馴れ初めについて書きますが、私がインターネットにはじめて触れたのは1998年のことでした。
研究職をしていた父が使っていたパソコンをたまに借用する当時中学生、最初期は人の日記を読んでいたような記憶があります。
もともと本を読むのが好きな子どもだったのですが、「永遠に読んでもなくならない人の日記」に触れたような形で、読むものがたくさんあることに狂喜乱舞していました。

「テレホタイム」ですが、老人会を象徴する言葉かなとも思います。

テレホタイムとは
NTTが1995年に開始した深夜早朝の電話料金割引サービスのテレホーダイが適用される23時~翌8時の時間帯のことである。

https://www.sophia-it.com/content/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%9B%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0

読んでもなくならない本は魅力的ですが、当時のネットは接続時に電話回線を使用していたため、電話料金がかかりました。つまり「電話をかけている」のと同じ状態でネットへの接続をしていたため、接続している時間の分だけ電話料金がかかります。

当時は中学生でもあったので、早速ネットに繋ぎすぎて親に怒られることとなりました。

  1. ネット接続時、電話がかからなくて怒られる

  2. ネットの繋ぎすぎで電話料金がかかって怒られる

この2点での怒られを経由した結果、「テレホタイム・テレホーダイというものがあるらしい」ということをなんとなく知り、夜中の23時に家族が寝た後にネット接続を行うようになりました。

ちなみにこのテレホーダイ、来年2024年1月をもって終了するとのことです。まだシステム自体は継続してたんか知らなかった。

テレホーダイが広がりを見せると、夜23時からインターネット全体の通信量が急増します。ユーザーにとってそれは夢の時間の幕開けであり、いつしかテレホタイムとも呼ばれました。あまりに楽しみすぎて、テレホタイム開始時点にアクセスが集中し、ネットに繋がらないこともしばしば。少量の料金が掛かるのは仕方ないと割り切って、23時直前から繋ぐ(通称、「フライング」)猛者もいました

https://www.inside-games.jp/article/2023/01/03/142933.html


WindowsMEを相棒と呼ぶ日々

Windows98は親の持ち物だったので自由に使えなかったのですが、その後紆余曲折を経て、自分専用のWindowsMEを買ってもらうことに成功しました。当時たしか高校生くらいだったかと思います。このPCを相棒とし、文章を書いたり絵を描いたりするようになりました。

周りの友人もオタク友達な子で構成されており、なんとなくパソコンが使える子が多く、手打ちでHTML・CSSを駆使してテキストエディタでホームページが作れる子がいました。それがとてもうらやましくて、自分でも勉強を始め、手打ちでホームページを作りました。

自分は夢小説にあまり興味がなかったのでやってなかったのですが、夢小説派の友人はそういえばJavascriptを駆使して名前変換ができるサイトを作っていました…夢小説文化は未だに生きているようで、調べてみたところ令和版の名前変換How toを記載している記事がいくつか見つかりました。

現代の技術だと大変便利になっているのだなあと思います。

文章が書けることに気づく

ポエムクラブ(詩の掲示板)〜自分のサイト制作

絵と文章を読んだり描いたりするのが好きで、地味で暗くて地方に暮らしている女子中学生〜女子高校生だったのですが、インターネットをやっていてよかったこととしては「文章が書ける」ことに気づいたことだと思います。
絵はずっと好きだったのですが得意と言うには何かが足りず、たとえば絵のコンクールなどで「金賞」を取ったことはありません。クラスで一番絵が上手い子はいつも他の誰かで、自分は好きで描いているけれど圧倒的にうまいとは言えませんでした。

ネットで最初に文章を書き始めたきっかけは「詩」でした。

小学校のころ、詩を読むのが好きな子どもでした。「のはらうた」とか「あいたくて」とか、あとは谷川俊太郎の詩を擦り切れるほど読んでいました。しかし田舎の小学校でそんな趣味に同調してくれる子は他にいませんでした。

インターネットで他人の文章をたくさん読めることで「文章は…もしかして、自分で書いて投稿してよいのでは!?」ということにある日気づきました。長い文章を書き始める前に、「詩」であればいけるのではないか? そんな気持ちとともに「Poem Club」という詩の投稿掲示板に参加するようになりました。詩を投稿して、評価がつくのが嬉しかった。今で言う「いいね」的な評価制度で、いいねが0のときもありましたが、数個のいいねがつくこともありました。

「Poem Club」は結構大きい掲示版だったと思うのですが、今検索してもまったく検索結果に引っかかりません。諸行無常を感じます。自分が投稿していたのは1999年頃〜2000年頃でしたが、あんなにたくさんいたネット詩人はどこに行ったのか気になります。

ともあれ、この体験をもとに「自分は一応文章が書ける」という自己認識を持つようになりました。その後、好きな文章サイトという存在がいくつかできました。詩を書く人から小説を書く人まで、インターネットには「文章が書ける」人が溢れていました。

自分の生まれて育った田舎では「漫画が描ける」人はたくさんいたのですが「文章が書ける」人をあまり観測したことがありませんでした。(これは多分地方性だと思います)インターネットを通じて出会ったたくさんの文章、たくさんの「書ける人」によって、新しい世界が見えたと思います。

美大受験のストレスがすごすぎて小説を書くことに逃避した

詩が書けるのなら小説もいけるのでは?ということにも気づき、小説も書くようになりました。

ところで、当時私は美大受験に挑戦していました。

絵を描くのが好きだけど、クラスで一番上手ではないことがずっとコンプレックスでした。
高校生になって将来の進路を考えるようになった時、それでもどうしても美術や絵に関係した未来がいい、それしか選べませんでした。
地元に残って教職を取ることが周りにとっては一番望まれている選択だということもなんとなくわかっていましたが、東京に出て美術や絵に関わる仕事がどうしてもしてみたかった。
今にして思えばわがままではあります。親がその選択を受け入れてくれ、そしてどうせ行くなら美術大学に行けと背中を押してくれました。

しかし美大受験、つまりデッサン・平面構成を学ぶことは当時めちゃくちゃストレスでした。今ならわかるのですが、「絵」の処理と「文章」の処理に使う脳は動かし方が全く異なるのだと思います。当時は「文章」に全振りしているような脳の動かし方しか知らなかったため、「絵」や「図」をどうしていいかわかりませんでした。そこに意味が込められていること、図形を処理するよいやり方、光と影などの「絵」から読み取る情報処理、情報設計がどうしてもわかりません。デッサンは描いても何もわからず、平面構成はもっと意味不明でした。

放課後になると画塾に通い続けていましたが、絵を学ぶストレスを中和するためにずっと小説を書いていました。小説に関しては本を膨大に読んでいたため、ある程度文章の型が自分の中にありました。また、文章の教本などを読むことで「こうすればもっと文章がうまくなる」方法を取り入れることもできました。人にもし生まれついての向き不向きがあるのだとしたら、私は後天的に絵の学習や訓練をすることによって「絵」がわかるようになった人間だと思います。

文章を書くことで美大受験仲間とネットで交流できた

「文章を書くことで絵の勉強をするストレスから逃げる」ということを繰り返した受験生時代、奇妙なことにそれがきっかけで何人かの美大受験生と知り合うことができました。同じ画塾の人たちは、自分の拙い絵をどう受け止めているのか怖くてなかなか交流できませんでしたが、ネット上の美大受験仲間とは文章やイラストをきっかけに、ある程度恐れることなく交流できました。
受験が終わって東京に出られたら会おう!という約束をして受験期を乗り切り、実際その後東京で会うことができました。何度か一緒に遊び、違う大学でしたがお互いのキャンパスを訪問することもありました。

ミッドナイト清純異性交遊

自分にとってのインターネットは、大森靖子の楽曲『ミッドナイト清純異性交遊』みたいなものだと思っています。自分の行く先が見えない深夜、モニタやiPhoneのあかりをもとに探す道のむこう、人の書いた文章を読む行為。人の書いた文章は、いつでもどこか違う世界への招待状のように見えます。招待状は暗号で書かれていますが、注意深く読むことで一歩でも先に進むことができます。

誰かに見つけてほしいときには、先に招待状を見つけないといけません。深夜のテレホタイムにわくわくした中学生のころ、98年のときから変わらず、今この段階でも私はどこかの誰かが残した日記や文章を追いかけています。

狂ってるのは君のほう ミッドナイト清純異性交遊

大森靖子『ミッドナイト清純異性交遊』


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