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オッペンハイマー

ある人のコラムを夜中に読んで、いろいろ考えていたら、夜を明かしてしまった。
このブログ? にはどんな挿絵がいいのだろう?
とまで考えてしまって、収拾がつかなくなってしまった。

3月末に世界に遅ればせながら公開されることになったらしい映画で、日本じゃ観れない時に、アメリカで別の映画となんかいろいろあったみたいで、盛り上がっているのを傍目で見ていて、これは、日本人の反応を伺ってるような、なんか挑戦状的なのか、オドオドなのか、そういう宣伝手法なのかな? とかいろいろ妄想してしまった。

本来なら、このブログ? を書くのなら、原作くらい読んでからが礼儀正しいやり方なんだろうけれど、わたしが言いたいのは、実はオッペンハイマーのことでなく、オッペンハイマーさんを利用させて頂いて、言いたいことがあるからだった。

オッペンハイマーはどんな人なのか、知らない。
映画を観て、ああ、そういう人だったのかもしれないと思うのだろう。
原爆を作った科学者ということは、だいぶ昔から知っているが、人となりはあんまり知らない。

ただ、アメリカの大統領は、日本の被爆者に謝罪をしない。
それは、原爆を日本に落としたことで、悲惨な侵略戦争を終わらせることが出来たから、これは正しい選択だったのだと考えているかららしい。

悲惨な戦争。
それは、侵略戦争であり、人種差別、多くの若者たちの残酷な死、人権侵害、陰惨な虐め、暴力、非業の自決、その他様々な悲しい苦しい辛い、人間にとって耐え難い出来事を指し示しているのだと思う。

平和を愛して、人の思いやりを信じて、慈しみ合い、すべての人の権利を認め合い、愛と友情、人には欠点もあるけれど、人は間違いをおかすけれど、本当の悪はいない。そうなってしまうには、やむに止まれない理由があったはず。悪を憎んで人を憎まず。

自由!!

愛。そして、平和。

オッペンハイマーが、そういうことを常に考えていたかは、映画を観てみないと分からないけれど。

例えば、真珠湾攻撃について、日本に対して怒りを覚え、怒り任せに原爆作っちゃって、大統領やその他の政治家や世論もそれを日本に落とすことは正しいとしていて、そんな空気があって、罪のない民間人殺戮に、原爆は使われた。

として、オッペンハイマーがいつもいつも、頭の中はラブ&ピースでフリーダムをテーマに生きていたら、その矛盾に自分自身が大きな衝撃を受けてしまって、もしも繊細な心の持ち主で寝不足が続き、激務が続いていたら、生きてることに耐えられなくなっちゃったんじゃないかなって。

オッペンハイマーが、これはないと思うけれど、例えば、大学の講義で学生たちに、命の尊さや虐めの不毛さを説いていたとしたら、自分が発端で世界の在り方がガラリと変わってしまい、今後も見知らぬ誰かが、自分の言動が発端として、傷つくことに、大いに狼狽して、パニックに苛まれたのではないかなって。

自分が起こしてしまった、自分にとっての最大の不本意に耐えられなかったんじゃないかなって。

何かを作る人、生み出す人って、心に絶対壊されたくない大切な何か、誰にも汚されたくなかった大切な何か、プライドみたいなものがあるように思うから、それが壊されたような、崩されちゃったような、汚されちゃったような気がしてしまったら、絶望すると思う。
だけど、自分の意図してなかったところで、自分はそうは思ってなかったことなのに、まるでそう思ってる先駆けのように崇められて、それが、どんどん勝手に一人歩きしちゃって、それを止めたくとも策が見つからずに、その人が大事に大事に積み上げてきた何かが、一瞬でボロボロにされちゃう時ってあるんだと思う。
それが例え、世間一般で、正しいと言われ、支持されていることだったとしても、本人にはそう思えなかったのだから、とても苦しかっただろうなと思う。

いったい、オッペンハイマーとはどんな人だったのだろう?
いったい、どんなふうに描かれているんだろう?

わたしは、長崎の資料館も広島も行ったけど、はだしのゲン観て怖くて眠れなくなったけど、アメリカ人のよく言ってそうなフリーダムやラブ&ピースは、いまだにどういう意味なのか、あんましよく分からない。

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