大島萌

内観の日々、たましいの陶冶

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僕たちはこの世界に、頭から登場した

命をふたつ産み落とすまでの話をしようと思う。 兆候があったのは11月15日の14時。 大部屋の一角で、同室の妊婦さんたちーひとりは無遠慮に仕切りのカーテンを開けてくる若い女性、ひとりは挨拶をしても返してこない不機嫌な女性、ひとりは声の大きくガサツな女性ーの意識の視線をひしひしと感じながら、規則的にやってくる陣痛のためナースコールを押した。 数日前、同じような順序を踏んで陣痛室までいったものの、結局お産までは進まず大部屋に逆戻りしたため、今回もその二の舞になるのではという懸

    • 雨垂れ石を穿つ、すなわち掃除夫ベッポのおしえ

      時間のかかることが好きだ。 もともと何かをするにあたって要領のいい方ではないし、得手としていることに関してもかなり(何に、と問われると返答に窮するのだが、なにかと)手間取るのである。 いくら時間があっても足りなかった学生時代などは、やはり自身のそういう性質に嫌気がさしたし、効率よく物事をこなすーといっても、当時でいうところの課題や試験勉強、レポートといった程度のことなのだがーひとたちをみて、あんな離れ業、一体全体どうやるのかしらと、しばしば首を捻ったものだった。 しかし歳

      • 善意の当たり屋、もしくは玉ねぎの皮を剥くように

        善意の当たり屋。 どこかでそう表現しているのを目にして、「なるほど」と膝を打った。 私-もしくは、私たち-はしばしば、“善意の当たり屋”に遭遇する。 彼らがどういう人たちかと云うと、 『相手が求めているか・いないかは別として、自己満足のために施しをおこなう』人たちのこと。だと、私個人は定義している。 これは大袈裟な例だけれど、サプライズ(まあフラッシュモブとかそういうのも含めて)、ああいうのは本来、相手の性質をかなり理解していないとできないことであって、時間・手間・人手

        • 魅惑のみどり

          みどりいろというのは、私をひどく魅了する。 店先に並ぶ洋服たちのなか、手に取るのはいつも決まって緑色のワンピースだし、友人に贈るための革製品を眺めていたときも、「あっ」と思わず駆け寄ってしまった財布は、やはり森のように深い緑色をしていたーそして結局、その日に私が連れ帰ったものは友人への贈りものではなく、その財布ひとつだけだー。 また、夏などのあかるい緑で溢れかえる季節など、玄関を出た瞬間に息を呑むことがある。 青々とした自然がすきだからというよりも、「うわあ。なんてすてき

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          老木に残った花

          能楽堂にて『小町花伝』を観た。 はじめての、瑞々しい体験だったので備忘録として記しておく。以下なげぇ予感。 全部で三部構成だった。 第一部は朗読・能『卒都婆小町』、第二部は演劇『小町花伝』、第三部は作品をふまえた座談会という構成である。 まず、能。 観阿弥原作の卒都婆小町を、原文・現代語訳・唄で朗読するというつくりだったのだが、前提として私は能についての学は皆無である。 だもんで、開演直後の数分間は、普段の音楽生活では聴き慣れないたっぷりとした謡い回しに対して退屈の予感と

          老木に残った花

          健康で文化的な最高限度の衝撃

          さみしさが襲う。 私は周期的にやってくるこの状態を「精神の綱渡り」と呼んで可愛がっているのだが、それでも日々有意義に過ごさねばという余計な警告が脳内で鳴りひびく。 そういう場合、有意義かどうかは別として、あくまで自身が愉しめて且つ後々なんかしらで役に立ちそうなことごとを行うことにしている。 たとえば、美術館。 そこへ赴くことは私にとって自分自身と向き合うことに他ならない。どれだけ多くの来場者がいようとも、そこに在るのは私、そして絵画たち。ただそれだけ。 私は美術館を愉

          健康で文化的な最高限度の衝撃

          愛しいY、または言葉を扱うすべての人へ

          仕事の合間にミスドで時間をつぶす。 ミスドはいい。コーヒーをおかわりできるし、時間の捨て場みたいな過ごし方をしているサラリーマンや中年女性が点在していて退廃的だ。時間を“つぶす”という表現がぴったりの、空元気のようなわざとらしい明るさがいいのだ。 少し前にやめたはずの煙草をふかしつつ、Yからのメッセージに返信する。 煙草とお酒と夜の時間は、大人の救いだ。居ても立ってもいられない、けれどきちんと甘えを請うのがむずかしいとき。大通りの喧騒から逃れたくて、ひっそりと路地裏へ駆け

          愛しいY、または言葉を扱うすべての人へ

          ゆがむ、融け合う

          目覚めると、昨夜枕元で読んだ上廣哲彦の『正しい生活』の一文が脳裏をよぎった。 このようにして、眠る直前に摂り入れた情報は翌朝の起床の瞬間と同時にルービックキューブの面が揃うようにカチャカチャッと音をたてて整理される。 やれと身体を起こし、洗濯や掃除をそれなりに済ませ、行きつけの喫茶店へ向かう。 いつも決まった席。店員の顔も憶えてきた。 坂口安吾全集の『風と光と二十の私と』を読み、いつも通り、決まった箇所で心がふるえる。 これは安吾が小学校教師をしていた当時のエッセイだ

          ゆがむ、融け合う

          高校時代の思い出が芋づる式に ⑴

          今日は一日中なにも用が無くて、爪を整えたり家賃を払ったりして、それらも済ませてしまって家で寝転がって西加奈子の『ふる』を読んでいたら、なぜか芋づる式に高校時代の思い出が脳裡を過ぎった。思い出、というのも総て女の子たちにまつわることだ。 高校一年生。 クラスメイトにちあきちゃんという子がいた。 これがまあとてつもなくかわいくて、誇大表現ではなく眼の球がビー玉のようにつやつやとしていて、肌も髪も漫画のようにハイライトが入っていた。 容姿端麗なちあきちゃんを相手に、『直視チ

          高校時代の思い出が芋づる式に ⑴

          「顔」について

          さて、「顔について」である。 前回からもっと短いスパンで投稿するかと思ったが、意外と放ったらかしにしてしまった。けれどきょう受けた山西竜也さん(劇団子供鉅人)のWSが、この記事を書くきっかけ(というか、もはや書かなければならない必然性)をもたらしてくれたので、筆を執る。 まずはじめに、わたしはじぶんの顔が嫌いだ。 いや、違うな。場合にもよるが、基本的に苦手である。 じぶんの顔と真っ向から対峙し、化粧をしている時。お手洗いで用を足し、去り際に鏡をみる時。街を歩いてい

          「顔」について

          点描を打ちながら、淡々と話す

          点描を打ちながら、淡々と話す

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          「女として生きること」について

           これから具なしパスタを作る予定。バターとしょうゆと、海苔とオリーブオイルだけのやつ。結構美味しいんだよ。金が無くても腹はふくらむ。 さて、またもやタイトルとは全くもって無関係な始め方(というかギャップが生まれすぎてむしろそこに意図があるんじゃないかとも捉えられそう)。でも、やっぱり全然関係ないよ。  突然ですが、わたしは性を女として生まれたこと、というかじぶんが女として生きていることになかなかおっきな嫌悪感を抱いております。  でもね、違うんですよ。女性はすきなんです

          「女として生きること」について

          「わかりあうこと」について

           使っているmacの、deleteキーが突然使えなくなった。  普段あたりまえのように使えていたものが突然使えなくなると、なかなか困る。そして、ありがたみを実感する。なーんて、よくあることだ。  上の出来事とはまったく関係なく、近頃「人と人はわかりあえない」と心から感じることが、ままある。これはまごうかたなき事実だ。  いや、違う。正しく言えば、「人と人は本来わかりあえるものの、その目的を達成する為には半端じゃない労力・時間・覚悟が必要なので、ほんとうにわかりあいたい相

          「わかりあうこと」について

          まめらじvol.3「死について」

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          まめらじvol.2「『わかるわかる〜』について」

          まめらじvol.2「『わかるわかる〜』について」

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          まめらじvol.1「江國香織さんについて」

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