見出し画像

健康で文化的な最高限度の衝撃

さみしさが襲う。

私は周期的にやってくるこの状態を「精神の綱渡り」と呼んで可愛がっているのだが、それでも日々有意義に過ごさねばという余計な警告が脳内で鳴りひびく。

そういう場合、有意義かどうかは別として、あくまで自身が愉しめて且つ後々なんかしらで役に立ちそうなことごとを行うことにしている。

たとえば、美術館。
そこへ赴くことは私にとって自分自身と向き合うことに他ならない。どれだけ多くの来場者がいようとも、そこに在るのは私、そして絵画たち。ただそれだけ。

私は美術館を愉しむにあたっていくつかの流儀がある。
まず、鑑賞の際はかならず直感に従うこと。
決して安くないチケット代と時間、そして「初来日!」などと謳われる作品たちの希少価値の高さに惑わされることなく、心の目が留まらなければ迷わずその前をスルーするという確固たる姿勢が必要なのだ。
これは、普段おこなわれる「2%割引セール」等には目もくれないくせに増税前となるとその言葉の禍々しさに踊らされて(家電とかならまだしも)トイレットペーパーとか洗剤とかのこまごました物を買い溜めするというような、そういった精神への私なりのアンチテーゼである。決して、「MOTTAINAI」に操られてはいけない。

次に、鑑賞後すぐのミュージアムショップでポストカードを購入する際は、時間をかけて悩むこと。
私の場合、最も気に入った絵画のそれを買うのではなく、あくまでポストカードとして手元に置いておきたいものを選ぶのだ。これは、鉄則。
鑑賞するうえで非常に美しく感じられた絵画が、必ずしもポストカードとしても同様に私の胸を打つとは限らない。
サイズ、色調、総てが本物のそれとはまったく異なるわけだから、じっくりゆっくり慎重に、ポストカードとして最も愛せる一枚を選ぶ。私にとって、ミュージアムショップはもうひとつの美術館なのだ。

今回はそれが如実に表れた。
会場に足を踏み入れたその一歩目で、私はとてつもない衝撃を受けた。
それが、クロード・モネの『花瓶』である。

一見粗々しく描かれた花弁のひとつひとつが、恐ろしくもの憂げで美しい調和を成していたからだ。
目の前に、そこに、花瓶が在る。手をのばせば届きそうで、指先で触れると花びらがはらりと一枚舞い落ちてしまいそうな、儚さと確かさを物語っていた。

序盤早々に打ちのめされた私はとてつもない充足感と多幸感に襲われ、最早それ以降の鑑賞がなおざりになってしまいそうだった。衝撃的などんでん返しを迎えた長編小説を読み終えて、本を閉じた途端に思考回路も閉ざされて上の空になってしまう状態と似ている。

初めからこんなことになってしまって、最後まで愉しめるかしらと不安がっていたものの、それは杞憂であった。今回のコートールド美術館展、その広告のメインビジュアルにも使われているエドゥアール・マネの『フォリー=ベルジェールのバー』が、また同じくらいの衝撃を私に与えてくれたからだ。

絵画を鑑賞する上で、私は技法や背景などを一旦抜きにして感覚的に浴びることを念頭に置いている。手引きは無視して、ひとまずは私の肌に合うかどうかが重要だと信じているのだ。
しかし、これは違った。ただでさえ魅力的なのに、驚くような仕掛けが画面のなかで多分に施されている。

ひとが右と言えば左、客の群がる作品はあえて見ないという天邪鬼な私でさえ、この作品がメインビジュアルたる所以をまざまざと思い知らされ、つまびらかに、騒々しい静謐さをもってそれを語っていた。

さて、しかしながら私の選んだポストカードは、その内のどちらでもない、ただ広大な草原のなかにぽつねんと女性が配置されているものだった。
本物のそれよりも手のひらサイズのポストカードの方が、白く縁取られた小さな窓からのぞく光景の鮮やかさと風の吹くさまを一層感じたのだ。

絵画はじぶんを映す鏡だ。一枚の絵でも、それと対峙するひとの数だけ物語がある。
ぽっかり空いた穴(今回ばかりは底知れぬ淋しさ)を埋めるように、私はまたそれに気付いたとき、美術館へ向かうだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?