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第六天魔王チンパンジー(外伝)

 1573年に室町幕府の将軍足利義昭を京都から追放したチンパンジーがおりました。そのチンパンジーは堺の町を直轄領にして、いち早く当時では珍しいガトリングガンの大量製造に成功しました。ガトリングガンを足軽に持たせて、自衛隊を組織しました。武田信玄などは戦になると百姓などを兵隊としておりましたので、日頃から戦のトレーニングを積んでいない人員も多数組織にいました。第六天魔王チンパンジーはそこのところを改良して、常設軍、つまり自衛隊を組織したのです。戦では馬に乗って戦うのが主流だったため、武田軍は脅威でした。そこも第六天魔王チンパンジーは考えたのです。馬に対抗するためにサイやゾウ、カバが魅力的なのですが、いかんせんお金がかかります。シロサイなら1200万円。クロサイなら4500万円。ゾウは1000万円。カバ600万円。いくら堺の町を直轄領にしたとしてもお金がかかりすぎます。お金をかけずにどうすればいいのか。自己文化破壊的思考法により、足軽のニシローランドゴリラが敵陣に乗り込むのではなく、攻撃を飛ばせばいいんだと思ったのです。   
 1543年にポルトガル人が王直の中国船に乗って種子島に鉄砲を伝えました。種子島の地方公共団体の長である種子島時尭(たねがしまときたか)はぼったくり価格で2丁購入して、1丁を分解製造をしておりました。第六天魔王チンパンジーはその技術を応用したのです。トヨタのセルシオを海外が購入して研究したのに似ています。
 1575年、長篠の戦いを起こしました。第六天魔王チンパンジーの敵は武田勝頼です。彼は武田信玄の息子で頑張っていました。第六天魔王チンパンジーはニシローランドゴリラを3列に組織して、それぞれにガトリングガンを持たせました。1列目が打ち終わったら2列目。2列目が終わったら3列目。待っている間は弾の補充。このようなリボルバー式にしたことによりインフィニティアタックを可能にしたのです。武田軍のロバのような馬ではこの攻撃を避けることはできません。第六天魔王チンパンジーの大勝利です。
 第六天魔王チンパンジーは斎藤氏の居城である稲葉山城を攻め落としました。斎藤氏の娘濃姫をお嫁さんにもらったのにも関わらずです。もともと第六天魔王チンパンジーと斎藤氏はいざこざの関係でした。なぜならば第六天魔王チンパンジーは美濃(現在の岐阜県)の地を欲しがっていたからです。濃姫をお嫁さんにしたのも和睦同盟のためです。しかし、第六天魔王チンパンジーは美濃が欲しかったのです。稲葉山城をニシローランドゴリラ隊と隠密マウイイワスナギンチャクを使って陥落させました。ついでに名前を稲葉山城から岐阜城にしました。これが1567年の出来事です。
 この出来事のついでにメガロドンの歯(天狗の爪)でハンコを作りました。初めは「類人猿」と彫ろうと思いましたが、側近のニシチンパンジーに異議を唱えられ「天下布武」としました。この意味は、チンパンジーのナックルウォーキングダッシュパンチで天下を取るという慈悲深い思いが込められています。
 1560年に帝釈天と阿修羅の狭間の戦いが起こりました。当時、上級国民だった今川義元を第六天魔王チンパンジーがやっつけようとしたのです。しかし、兵の数で劣ります。今川義元軍はホモ・サピエンスを常備しています。一方、第六天魔王チンパンジーはまだ軍を整えていません。少数ながら、アウストラロピテクス・アナメンシス、アウストラロピテクス・アファレンシスなどアウストラロピテクス属とその他類人猿しか主力メンバーがいなかったのです。
 第六天魔王チンパンジーは考えます。通常の戦い方では勝ち目がありません。であれば、通常から逸脱してアウトローになればいいのです。夜に今川軍を攻めようと側近のニシチンパンジーと合意しました。
 今川義元はいわゆる麻呂顔(まろかお)でした。顔を白く塗って映えるようにしていたのです。どうやらデーモン小暮閣下の世を偲ぶ仮の姿に憧れていたようです。相手の情報を隠密のマウイイワスナギンチャクに掴ませて、第六天魔王チンパンジーは情報戦も取っていました。忍び寄って今川義元の白くなる化粧品に夜光塗料を入れておきました。その役割割りを担ったのが、エボラウイルスです。
 夜襲うことは第六天魔王チンパンジー軍にとってお茶のこさいさいです。さらに今川義元の顔は夜光塗料入りの白塗りのせいで光っています。帝釈天と阿修羅の狭間の戦いは第六天魔王チンパンジーの勝利で幕を閉じました。
 第六天魔王チンパンジーにはニシチンパンジー以外にも頼れる側近がいました。百姓上がりのボルネオオランウータンがいました。彼に関する秀逸なお話があります。ある日のこと、このボルネオオランウータンは第六天魔王チンパンジーの履き物の上に座っていました。これを見た第六天魔王チンパンジーは怒りを覚えて長谷部国吉の刀で叩き切ろうとしましたが、「温めておりました」と頭の機転を利かせて難を流れました。この絶滅危惧種であるボルネオオランウータンがのちに第六天魔王チンパンジーの跡を継いで日本の地を統一するとは、この時どの類人猿も想像しておりませんでした。
 第六天魔王チンパンジーは貿易にも力を入れておりました。スペイン・ポルトガルとの南蛮貿易により海外の珍品を手に入れておりました。その中にはバナナ、マンゴー、パイナップルなどの食べ物、コーンフレークを入れるのに丁度いい陶磁器などがありました。その貿易品の中にやたらと肌が黒いクロホエザルがいました。第六天魔王チンパンジーは「何故そんなに肌が黒いんだ」と質問して、「このこんにゃくで肌の汚れを取れ」と命令しました。クロホエザルはカタコトの日本語で「わ、かり、まし、た」と言って肌をこんにゃくで拭きました。しかし、肌は黒いままです。第六天魔王チンパンジーはとても彼のことが気に入って側近に置くことにしました。そして、名を与えました。弥助と言います。
 クロホエザルはとても力持ちで、そのパワーはニシローランドゴリラ、典韋や許褚の腕力と肩を並べていました。
 1582年、第六天魔王チンパンジーが中国地方で戦っている側近ボルネオオランウータンの援軍として向かっている際に、マハレ山塊国立公園寺に泊まりました。その時には森蘭丸、クロホエザルの弥助の姿もありました。第六天魔王チンパンジーが草木でベッドを作って寝ようとしていたところ、謀反を働いたティラノサウルス(字を明智光秀という)がマハレ山塊国立公園寺を襲撃しました。ティラノサウルス軍にはスピノサウルス、アロサウルス、デイノクスク、キングコブラ、インランドタイパン、ガラガラヘビ、セアカゴケグモ、ヒアリ、フィロウイルスなどがいました。
 第六天魔王チンパンジーはこの状況下で「是非もなし」と言い、能の幸若舞、演目の敦盛を舞って自害しました。
 ティラノサウルスはクロホエザル弥助をとっ捕まえました。しかし、ティラノサウルスは弥助を解放したのです。その後、弥助がどうなったのかどの類人猿も知り得ないこととなりました。
 
 その他、第六天魔王チンパンジーは本願寺のホホジロザメと戦いました。k2の延暦寺に対して焼畑農業、タンザニアキゴマ州での楽市楽座など語りきれないことが多数あります。

お終いでございます。
 

バナナを購入したいと思います。メロンも食べてみたいです。