毒ガスの話 その1

皆さまはじめまして。私は大学院で化学系の研究をしている者です。名前は二ヒコテとでも呼んでいただけると嬉しいです。国語は苦手なので文章作成にはあまり自信がないですが優しい目で気楽に読んでいただければ幸いです。

この記事は前回の続きです。アンモニアの話をお読みになった上で読んでいただけると幸いです。あと今回の内容は終始胸糞です。

前回の記事でアンモニアには良い歴史と悪い歴史の両面があると書きました。良い面は肥料としての利用、悪い面は爆薬としての利用です。アンモニアは人口増加に伴った食料生産を支えた一方、戦争を引き起こしたわけです。アンモニアはやがて爆薬以外にも毒ガスとしての利用という観点からも研究されるようになりました。毒ガスの研究を熱心に行ったのは何とアンモニアの工業的製法を確立したハーバーだったということで前回は一旦区切りました。

ハーバーには裏の顔があります。それは「化学兵器の父」とも言われる所以です。ハーバーは熱心な愛国者で、ドイツの為を思って毒ガスの研究を行いました。ハーバーの妻クララはハーバーと同じ化学者なのですが、ハーバーの毒ガスの研究に対しては否定的でした。クララが毒ガスの研究をやめるように言っても無駄な抵抗。ハーバーの考え方は「平和の時は世界に属するが、戦争の時は祖国(ドイツ)に属する」「毒ガスを用いて戦争を早く終わらせることこそが平和に繋がる」というものでした。クララは子供を残して自殺してしまうという何とも悲しい最期を迎えました。(左がハーバー、右がクララです)

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始めはアンモニアを毒ガスとして利用しようという観点からでしたが、正直アンモニアだと弱い。仮に私が目の前でアンモニアを噴射したところで多分人を死なせることはできません。そのため、ハーバーの研究の対象はアンモニアからもっと危険な物質へと変化していきました。ハーバーの毒ガスの研究のそもそもの根幹がアンモニアですので、これもアンモニアの負の歴史となります。

ここから先はアンモニアは登場しません。もっとやばい奴らしか出てきません。ハーバーが目に付けたのはホスゲン。分子式ではCOCl₂と書きます。塩素があるのでお分かりかと思いますが、アンモニアとは異なり塩素系ガスです。理系化学をやったことがある人なら分かるかもしれませんが、ホルムアルデヒド(COH₂)とよく構造が似ています。それもそのはず。だって水素原子を塩素原子に置換したものですから。材料は塩素と一酸化炭素と触媒の活性炭のみ。多分ホスゲン程度なら私も作れます(もちろんやりませんが)。

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ではホスゲンとはどれくらい毒性が強いのか。簡単に言うと吸って数時間後には死にます。催涙・くしゃみ・呼吸困難などの急性症状を引き起こし、数時間後には肺気腫となってしまいます。毒性は塩素の10倍近くに相当します。まあまあ猛毒です。

当時のドイツはヨーロッパ1化学工業に長けていました。フランスもホスゲンを製造していたらしいですが、フランスが非人道的だと使用を躊躇っていたのに乗じて容赦なくホスゲンを戦争に使ったと言われています。更にハーバーは毒ガスの対策として、解毒剤とガスマスクの開発も行いました。守備も攻撃もできる化学者。私は好きです。ただハーバーに関しては今でも評価はまちまちです。

フランスもホスゲンを使い出したのでホスゲンを改良したジホスゲンの開発も行いました。分子式は(COCl₂)₂ですのでホスゲンの二量体です。ジはギリシャ語で2の意味があるためそう呼ばれています。ホスゲンよりも毒性はやや強いです。クロロギ酸メチルのメチル基の水素原子3つを塩素置換することで製造可能です。多分これもそんなに難しくはないかと思います。私はもちろんやりません。ジホスゲンの最も恐ろしいのはマスタードガス(イペリット)の開発に大きく貢献したということです。

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ではマスタードガスとは何か。簡単に言うと皮膚に触れただけで吸ったことになる超猛毒ガスです。マスタードガスに使用されている硫化ジクロロジエチルの不純物がマスタードのような匂いがする(純粋なものは無色無臭です)ということからマスタードガスと呼ばれます。また、イペリットと呼ばれるのはイープル戦線で初めて使用されたからだと言われています。原料のチオジグリコールも糜爛性があるので初心者の製造はおすすめしませんし、私もやりたくありません。

マスタードガスとホスゲンの違いはさっきも少し言いましたがガスマスクを貫通して効果が出る。ホスゲンとは異なり遅効性ガスであることです。遅効性というのは効果が出るまでにラグがあるということです。しかもマスタードガスは蛋白質やDNAと強く作用(主に内部のN元素と反応)し、破壊するという恐ろしい作用があります。そのため吸ってすぐは気づかないものの、後遺症にずっと苦しみ続けるためある意味ホスゲンのような即効性ガスよりも悪質性は高いです。日本はマスタードガスとは無縁ではなく、瀬戸内海の大久野島で密造されていたこともあります(ウサギの島としても有名なところです)。

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ここまで見るとハーバーは戦犯やんけ!と思う人もいるかもしれません。でもそうとは言えない事情もあります。私はハーバーについて一点重要なことを言い忘れていました。それはハーバーは実はユダヤ人という事です。・・・勘のいい人は気づきましたかね?そうヒトラーです。

ヒトラーがご存じの通りユダヤ人大虐殺(ホロコースト)を行った人物です。ハーバーがあれだけ熱心に毒ガスの研究をしたのにも関わらず、ドイツはWW1に負けてベルサイユ条約で土地を一部失い、軍備制限をされ、更には多額の賠償金を負わされてしまいました。ハーバーは愛国者であるのでノーベル賞受賞の際にもらった金(マネー)を使って一部返済、海水から金(ゴールド)を抽出することで借金返済に少しでも貢献しようとはしたようです。しかし、ヒトラーはそんな愛国者を無慈悲に扱ってしまうのです。彼はユダヤ人だったので・・・。

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あれだけ優秀な化学者なのに容赦なしかよ!と思う人もいるかもしれませんが、一応追放で済ませたのはまだマシかもしれません。実はヒトラーは兵隊として出陣した際マスタードガスによって被爆しています。ヒトラーは毒ガスをかなり嫌っていた可能性があります。そのためハーバーの研究にはひどく消極的でした。ちなみにボッシュ(ハーバーボッシュ法のボッシュです)はハーバーの追放に対して「ユダヤ系の科学者を追放することは、ドイツから物理と化学を追放することである」と反発したものの、ヒトラーは「それならば、これから百年、ドイツは物理も化学もなしにやっていこうではないか」と言ったそうです。ヒトラーアホやなと思う反面、毒ガスの残忍さを理解している立場ならまだ分からなくもないような・・・複雑な心境です。

ハーバーはその後イギリスのケンブリッジ大学に迎えられましたが、祖国から見捨てられたショックは大きかったようでその後は大した成果を残していません。失意のせいなのか体調不良を起こし、スイスのバーゼルに旅行に行った際にお亡くなりました。ハーバーの墓は妻クララと同じバーゼル内のヘルンリ墓地に埋葬されています。

アンモニアには避けて通れない毒ガスの負の歴史があります。しかし毒ガスの話はまだ終わりません。続きは次回です。

皆さまとの出会いに感謝、略してC₁₀H₂₂です!

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