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厳罰化の果ての「無罪」

 この5人が死傷した交通事故での無罪判決確定が大きな話題になっている。勿論、「無罪」は納得出来ない、裁判官が間違っている、という意見がほとんどで、マスコミもその論調で報じている。

 だが、それは本当に正しいのだろうか?

 この事故や裁判の経緯としては、この地元新聞の記事がよくまとまっているので、先ずはこれを読んで貰いたいのだが、疑問に感じる点はないだろうか?

 交通事故を起こしてその結果、一人を死亡させ、四人にケガをさせたのだから逮捕して送検、そして起訴されるのは当然なのだが、逮捕や送検された時の容疑「自動車運転処罰法違反(過失致死傷)」が、起訴された時には交通事故なのになぜか殺人未遂を含む「殺人罪」に変更されている。そして今回、一審で有罪、二審で無罪の判決が出て、検察が上告を断念。無罪が確定した裁判というのも、この「殺人罪」という罪についての裁判なのだ。

 「刑法」 第199条
人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。

 この罪は誰でも知っているだろうが、もう一つ、「刑法」には重要な条文がある。

  「刑法」 第38条
1.罪を犯す意思がない行為は、罰しない。ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない。

 罪を犯す意志がない行為、つまり「故意」ではない行為は無罪、というのが「刑法」の大原則で、当然、「殺人罪」もこれが該当することになる。今回、無罪になった交通事故でも、運転していた女性が「故意」で人を殺傷した、つまり「殺意」があったといいう事実を裁判で立証出来なければ無罪になるのが必然なのだ。

 刃物を振り回したとかならばともかく、車を運転したこと自体は「殺意」の証明にはならないし、ましてや統合失調症の症状が出ている中で、道を歩いていた見ず知らずの相手を殺す明確な意志があったとは認めにくい。
勿論、明確な「殺意」ではなくても、「未必の故意」という概念もあるが、これも”自分の行為が殺人に繋がるという明確な「認識」があり、そうなってもいいという「意志」がある”のが前提となるので、統合失調症を発症していた加害者に当てはめるのは、それこそ逆に困難。

 そう、加害者が統合失調症で心身喪失状態だったのか、それとも責任能力があったのかが今回の裁判の争点だったのではなく、そもそも加害者が「殺意」という故意があって犯した行為なのか、否かが本当の争点だったし、その「殺意」を立証することが困難だと思ったからこそ、検察も上告を断念し、無罪が確定したのだ。

 だだし、これはあくまでも「殺人罪」の場合。

 最初の方にも書いたが、逮捕・送検された時の容疑、「自動車運転処罰法違反(過失致死傷)」という罪は全く違う。この法律はそれこそ上に書いた「刑法38条の1」の「法律に特別の規定がある場合」に該当し、「故意」ではなく「過失」によって起きた行為や結果でも罰することが出来るように定めた特別な法律なのだ。

 この「自動車運転処罰法(正式には「自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律)は、2013年に刑法の「自動車運転過失致死傷罪(第211条の2)」を廃止して、交通事故をより厳罰化することを目的につくられたもので、「病気運転致死傷(第3条第2項)という項目もあり、今回のような「運転に必要な能力を欠く恐れがある統合失調症」での運転も処罰の対象となっている。

 そう、「殺人罪」ではなく、この法律に違反した犯罪として検察が起訴して裁判を行っていればほぼ間違いなく有罪になったし、そもそも法律の主旨から言っても、「殺意」が必要な殺人罪ではなく、統合失調症という病気で運転する事を控えるべきなのに運転した「過失」を罰するこの法律で起訴すべきだったのだ。

 つまり、今回の「無罪」確定の責任は全て、「殺人罪」という全く的外れな犯罪として起訴した検察にあると言っていいのだ。

 ではなぜ検察が「自動車運転処罰法」ではなく「殺人罪」という罪で今回、起訴したのかも判りやすい。

一つは「厳罰化」の為。「自動車運転処罰法」の過失運転致死傷罪の法定刑は「7年以下の懲役もしくは禁錮、または100万円以下の罰金」。それが「殺人罪」では「死刑又は無期若しくは5年以上の懲役」となるのだから、どちらの刑罰がより重いかは明らかだろう。(ただ、この「厳罰化」に関しては、マスコミが被害者家族の悲しみや無念を伝え、それに呼応する世論が一緒になって、ただひたすらに「厳罰化」を求める今のこの国では検察だけの責任にする訳にもいかないが…)

もう一つは「病気の問題」。この「自動車運転処罰法」の「病気運転致死傷」の項目には、てんかんや精神病患者への差別に繋がる側面もあり、患者団体からの抗議だけではなく反対の意見も多い。被害者が死んだという結果ではなく、加害者が統合失調症という病気で運転した事を罰することで、そこの部分に踏み込むのは検察としては避けたかったのはほぼ間違いない。

そしてもう一つは「裁判員裁判」。「自動車運転処罰法」の過失運転致死傷罪ではなく、「殺人罪」で起訴となれば、裁判員裁判で裁判は行われる。これは裁判員裁判の批判としてここでも前に書いたことがあるが、法律の素人に過ぎない裁判員にあるのは「処罰感情」だけ。クルマを暴走させて1人が死に4人が大怪我をしたとなれば「故意」だろうが、「過失」だろうが、病気があろうが、なかろうが、事故の結果だけで「有罪」にしてくれるのは確実。
そういう目論見が検察にあったのは確かだし、そういう意味でも一審の裁判員裁判での判断を今回、二審が覆したことを批判する声もあるようだが、それも間違い。単に裁判員裁判そのものが法理論や法知識を無視した処罰感情だけで厳罰化を進めるリンチの場になっている現状があるだけなのだ。

 更に言えば、そもそも「自動車運転処罰法」そのものが、「危険運転致死傷罪」が適用出来ない交通事故を少しでも厳罰化する為に出来たものだし、その「危険運転致死傷罪」も2001年にそれまでの過失致死傷や業務上過失致死傷罪などの過失傷害の罪で交通事故を裁くのでは罪が軽過ぎる、という厳罰化で生まれたもの。

 悲惨な交通事故を防ぐこと自体は勿論、大切なことだが、それを被害者家族の処罰感情に応える為だけの「厳罰化」に頼るのは決して正しいとは言えない。
それこそ飲酒運転だろうが、猛スピードでの暴走だろうが、よそ見運転だろうが、加害者は「故意」で事故を起こそうとか、人を殺そうと思っている訳ではなく、あくまでも「過失」。それこそ“自分は事故など起こさないし、大丈夫だ”と思っているからこそ運転している訳で、それを事故を起こしたら厳罰にすることで抑止出来ると思っているのは勘違いというしかない。もっと交通安全教育や交通環境、クルマなどソフトとハードの両面から対策をしていくべきだろう。

 さらに「過失」の交通事故を厳罰化していけば、それこそ「過失」と「故意」を明確に分け、「罪を犯す意思がない行為は罰しない」という近代刑法の大原則までもが揺らぐことになる。

   また、今回の交通事故の的外れな殺人罪による起訴で、理不尽な「無罪」判決を招いた検察のやり方に象徴されるように、「厳罰化」ありき、刑罰ありきで、先ず加害者をどれだけ重い罪に問えるかによって、起訴する罪名を決めるようなことが平気で横行している。

    事実、煽り運転による死亡事故で運転していなかった加害者が危険運転致傷罪になったり、別の煽り運転では加害者が殺人罪で有罪になったりもしているし、これは加害者の行為が法律上、どの犯罪行為にあたるのかではなく、加害者にどの程度の刑罰を与えるかしか考えていない証拠。これはどんな行為が犯罪に該るか、またその犯罪にはどんな罰が課されるかを予め法律で定めておき、その行為を犯した者だけがその罪で罰せられる、という法治国家における罪と刑罰の関係の大原則、「罪刑法定主義」を無視する暴挙と言ってもいい。

 そもそもこの国の「厳罰化」の流れは交通事故に限らない。国際的な批判に背を向けた死刑制度の存続でも明らかなように、被害者家族の処罰感情だけを訴えるマスコミやそれに影響された国民世論のせいで「厳罰化」はとどまる所を知らない。 死んだ人は殺した人間を死刑にしても帰って来ないし、目には目をの「応報刑論」を脱し、二度と犯罪で苦しむ人を出さない為、犯罪そのものを減らす為にはどうすればいいのかを考える「目的刑論」を導入することで、近代以降、世界の法制度や裁判は進歩してきた筈。

 それを「故意」だろうが「過失」だろうが、人が死んだらその責任を同じように取らせて縛り首にしてしまえ、というような大昔の考えに戻るのは間違いというしかないし、今回の判決もそんな誤った考えが招いた結果としての「無罪」だという事は認識すべきだろう。


追記:今回の浜松5人死傷事故の加害者が無罪放免になったと怒っている方もいるようだが、勿論、「一事不再理」の原則でこの交通事故を裁くことはもう出来ない。ただ、検察も上告を諦めて無罪にはしてしまったが、恐らく加害者を放免はせずに精神病院に措置入院させる方向で動くだろうし、事実、その事に言及もしているらしい。それくらいの意趣返しは平気でやるのが検察だという事もまた別の話として知っておいて欲しい。


  ※Photo by PIXTA(今回、無罪判決を出した裁判所とは無関係のイメージ映像です)



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