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評価選別社会

現代社会では、評価選別社会が定着しています。
身近なところではネット販売サイト。商品を購入した人が、その商品のみならず、会社の対応から何から何までを星の数やコメントで評価して、その他の人がそれらを参考に(選別)して買い物をしています。以前通販と呼ばれていたものが、ネットが一般普及し、口コミがダイレクトに評価として表され、同じ(ような)商品の購入を考えている人が参考にできるシステムができたことはとても画期的だったと思います。それはいわゆる品物にとどまらず、いろいろなサービスにまで幅広く定着しています。とりわけ消費者側からすれば、手に取って見たり試したりできない商品や、これまで利用したことがないレストラン、ホテル等その他のサービスを受けることを思えば、大変助かるシステムと言えます。ただ、あまりに鵜呑みにすることもちょっと危険で、きっと「サクラ」もいるでしょうし、人の意見はほぼ主観なので、その人にとってはダメであっても、別の人にとってはOKということもあるかもしれませんし、それに対応した店舗側の人間もいつも同じ人かどうかもわかりません。とはいえ、参考になるのは事実。

評価するにあたっては、そのコメントの書き方も様々で、お金を支払うのにこんな扱いで…と思って怒りを感じるようなコメントや悪意さえ感じられるコメントも中にはあったり、評価をする立場になることで、特に気に入らなかった場合など、自分が神様になったようなつもりで相手を裁いてしまうような書き方も見受けられたりします。そこには節度のようなものが感じられず、ただただ相手を傷つけてしまうことになってしまいます(その前に自分が傷ついたということなのでしょうが…)。
お金を支払うのは消費者ですから、特に日本では消費者はつい商品は質が良く、サービスは丁寧迅速が当たり前だと思ってしまいます。同時に「お客様は神様」(本来の意味とは違ったカタチで定着している言葉)であるから、何を言ってもいいのだと言わんばかりの言動をしてしまいがちになっていたりしないでしょうか?どんなときでも「言い方」はありますよね!?もし自分が同じようなことを言われたり悪態をつかれればどんな気持ちになるでしょう?そんな時、人というのは顧みれないものなのかもしれませんが、できるだけ省みることは必要なのかもしれません。
いろいろな質の向上には評価はつきまとうのかもしれませんが、それでもあまりギスギスとすることなくそれに当たれたらいいなぁと思います。詐欺や悪意ある業者でなければ特に。

ところで、評価が目に見えることが一般的であると、同時に「選別」も行われます。評価指数の良くないものをあえて選別するというのは一般的には考えられません。人社会も、常に消費者側であるとは限らず、仕事をしていれば提供側に回ることもあります。そう思うと人社会は、1日の中で、ある時は提供側、ある時は消費者側に立ち、相反する役回りを共存させながら生活していることになります。別に「提供」ということではなかったとしても、例えば会社(組織)の中であなたが一従業員だとしたら、役職上その上に立つ者から評価選別されているのかもしれません。そこでミス等を裁かれるようにして言われたら腹が立つこともあるでしょうし、逆恨みしたり、逆に精神をダメにしてしまったりもあるかもしれません。そうなってしまってはいいことなど何もありません。ギスギスするばかりです。私は「そういうものだ」と半ば諦めたりしたくはないと思っています。自分自身全く立派な人間ではありませんが、人たる向上を目指していきたいと思っています。機械だって故障があるのだし、まして人だっても完璧ではありません。

評価選別もほどほどにした方がいいなぁと思います。では「どの程度にすれば?」という疑問は消えないのですが…せめて個人で評価の書き方や言い方は省みる機会があった方がいいのではないでしょうか?

中国では「信用スコア」なるものがあるようですね。政府がそれを行っているというわけです。これも「評価選別」ですよね。共産主義国家だから可能なことなのかもしれませんが、もしそれが日本(政府)で起こったのならどうでしょう?しかしよくよく考えてみると、政府ではありませんが、日本社会では似たようなことが行われているようにも思います。それは会社が従業員を募集する時に提出を求める履歴書です。多くの会社はその履歴書(主には学歴、資格、会社履歴とその滞在期間等)を見て評価をし、選別しています。失敗は許されないという慣習がそこにもなんとなく現れています。多くの応募があれば、いや少ない応募であったとしてもそれは行われます。そこでは数値化しないまでも「信用スコア」のような存在があるようにも思えてしまいます。大企業になれば募集する人員も多く、それこそ一人一人に目を向けるには難しい点も正直あるでしょう。逆説的に選別しなければならないことで評価しなければならない…それと同時に、評価選別する人が果たしてそれに足る自分なのかどうかの問題もあるような気がしています。しかしそれでも評価選別がなされている現実。
大人になっても人は育っていきます。だとしたら人を変えることは難しくても、育てることはできるのかもしれません。可能性を見出してあげることでその人を伸ばしてあげることもでき、はたまた親切にしたり励ますことでやる気が生まれたり、その人がまた別の人に同じようにしてあげたいと思えたり…そういうプラスの相乗効果があるだろうことを思えば、反対にただ文句を言われたり、悪意をもって接せられたり、いとも簡単に切り捨てられたりすればマイナスの相乗効果もあるでしょう。
利益追求の資本主義社会では、その折り合いというか、なかなかうまくいかないものなのでしょうか…?そう思うと資本主義社会の副産物として「人をダメにしてしまうシステム」のように感じてしまいます。利益追求のために有能でなければならず、特に日本は家族よりも仕事を優先してしまいがちで、収入を得ることは家族のためでもあり、会社あるいは会社内に留まる自分自身の信用を失わない為に家族を多少犠牲にしても仕事を優先させてしまう…もはや日本独自の社会慣習と言えるかもしれません。そして人は人生の中でかなり多くの時間をそれに費やします…

これまで「評価選別」というのは、大抵「上のポジションの者?」がしていたことを、良くも悪くも今や庶民でも行えるようになりました。評価選別社会が人をギスギスとした社会にいざなうのではなく、どうかプラスの相乗効果へ導くものとしてあってほしいと思います。

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