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在豪越南人

オーストラリアにベトナム人が住んでいることなど、妻と出会わなければ生涯知ることはなかっただろうと思う。
妻は十代の頃にベトナムからオーストラリアに移住し家族で移住しそのまま国籍取得したのだが、それはあくまで極めて珍しい例だと思いこんでいた。
それが誤解であることは、オーストラリア到着初日に知ることとなった。

シドニーから入国した僕を妻が迎えに来たのは、まだ新型コロナが始まる前の2019年秋だった。
当時妻はシドニーから車で3時間ほど南に行ったキャンベラという街に、家族と共に住んでいた。
僕たちはシドニーには寄らずそのまま妻の実家に向かう予定だったが、妻は義母からお使いを頼まれているようで、シドニー郊外のある集落に寄る必要があった。
妻曰くそこはカブラマタという名のシドニーでも最大のベトナム人街で、キャンベラで手に入らない食材や肉の部位が手に入るらしい。

この時まで僕はオーストラリアが移民の国だということをほぼ全く知らなかったので、ベトナム人街があるということ自体が大変驚きだった。
しかも、実際に到着してみるとその規模は想像していたよりも遥かに大きく、自分がとんでもない思い違いをしていたことがわかった。

広さでで言えば横浜の中華街と同等ほどの町だった。しかし、中華街がもっぱら日本人などの外から来る人に向けての飲食店で占められているのに対して、こちらは同郷人に対しての食材店や商店が殆どを占めていた。
青果店や精肉鮮魚店、果ては雑貨や金物まで本国のものが一式手に入るらしい。
あたり一帯はベトナム語が飛び交い、オーストラリア国内であるにも関わらず英語よりもベトナム語や中国語の表記が多く見られるほどだった。実際、英語がほとんどわからない人たちもいるらしい。
本格的な移民街とはこうまでも同国人が集住し、本国を模した街区を形成しているのかと驚かされた。

オーストラリアにベトナム移民が押し寄せたのは、ベトナム戦争の集結に端を発する。アメリカ軍の撤収後に総崩れとなった南ベトナムは、1975年4月に北ベトナムによって「解放」されることとなった。
その後の共産党政権による弾圧や、停滞した経済下の苦境に耐えかね、旧南ベトナム国民を中心に難民が大量に発生する。
折しも白豪主義政策を転換していたオーストラリアが、その大きな受け皿に一つになったのだった。
このことから、在豪ベトナム人は南ベトナムにルーツを持つ人々が多数派であり、国が消滅して半世紀経った今でもそこにアイデンティティを感じている人も少なくない。
実際、ベトナム人街で現行政権が使う旗を見ることは少なく、代わりに黄色地に赤の三本線が入った南ベトナム旗をよく見かける。

義実家で暮らしているある時、水曜どうでしょうで有名になった「ホーチミン・シー」という歌を何の気なしに鼻歌したことがある。
たまたまそれを聞いた義母に「その歌はオーストラリアであまり口にしないほうがいいよ、殴られることもあるから」と厳しめに注意された。
それほどまでにこの国にベトナム人が多く、この歌が代表するベトナムの社会主義政権に強い憎しみを抱いているということだった。
後々知ったのだが、義母の父は戦時中南ベトナム軍の要職に付いており、戦争終結後に長く投獄されていたそうだ。悪い事をしたと今でも思っている。

隣国ラオスやカンボジアにも共産主義政権が樹立されていた当時、南ベトナム国民の国外脱出ルートは必然と船になった。いわゆるボートピープルである。
以前実際に使われたボートを見たが、どう見ても外洋航海に向かない数十トン程度の木造漁船であった。それに100人近くが乗り込み、長大な距離を航行するのだ。非常に困難かつ命がけの航海だったことは想像に難くない。

ある人は命からがらマレーシアにたどり着き、難民キャンプで受け入れ先を割り振る係をしていたらしい。ボートごとに名簿が回ってくるのだが、ある時名前が一人分しか載っていない名簿が見つかった。ミスかと思い確認したが、その名簿は正しかった。船ごと海賊に襲われ、奇跡的に難を逃れた一人を残して全員殺されてしまったのだった。
またある人は成長する過程で、兄だけ他の家族と肌の色や顔立ちが違うことに気づいた。それは母親が難民船で海賊にレイプされ、中絶することもままならないまま産み落とした子供だったからであった。
どちらも人づての話だが、おそらくこういったことは無数にあったのだろう。

カブラマタの目抜き通りにNew World Marketという店がある。看板には中国語で「新天地市場」と書いてある。
動乱の本国を逃れ、命がけの航海を経てたどり着いた新天地で再起を図る。
そんな強い意志が込められているのではないかと、僕は思っている。

それから約半世紀、現在のベトナムは比較的平穏な時代を迎えている。
今も多くの人がオーストラリアに移住し続けているが、その目的は生存から生活になり、渡航手段は船から飛行機に替わった。
それでも「より良い明日」を求めてやってくる彼らにとって、オーストラリアはこれからも新天地であり続けるのであろう。


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