見出し画像

日本人の自然観

鳥獣害対策の勉強をし始めて5年、実際の現場に出て早3年が経とうとしている。

私だけでなく野生動物保護管理に関わる多くの人が、こういった思いを抱いたことがあるのではないだろうか。「日本には鳥獣対策の理論が浸透しにくいのかもしれない」と。その理由を考えてみると、なんだか奇妙な感覚に襲われた。ふと「まぁ日本人だからなぁ」と思ったら、それで納得してしまったのだ。

日本人のどんなところが、鳥獣対策に不向きなのか?気になったので調べてみた。テーマは【日本人の持つ自然観】だ。


---


そもそも、「自然」という言葉は何を意味しているのか。

日本語の「自然」には二つの用法がある。一つは「おのずから成り立っている、ありのままである、人為が加わっていない状態」を指す、いわば形容詞的な使い方だ。

もう一つは英語のnature、つまり物質・物体としての自然環境を名詞的に表現する使い方だ。

しかしここで、英語のnatureと日本語の自然には齟齬が生じる。というのも、明治以前は、日本人の中にnatureという概念は存在していなかったらしい(渡辺正雄.)。natureの日本語訳を決定する時に、意味が最も近い意訳として「自然」という言葉が使われた。それまで「自然」という単語は、「自然に花が散る」「雪が溶けるのは自然なことだ」というように、人間に関係ないところで自動的に起きる現象のことを表現していた。日本人は物質的自然を、ものとして見ていなかった。そしてそれは、日本ならではの物質的自然との関わり方に由来する。

古来より、日本の国土は地理的・気候的に安定していた。土壌は豊かで、生物種も多く、水と森林に満ちた素晴らしい場所だったことは今でも想像に難くない。狩猟採集の時代から日本人は、多くの恩恵をこの国土から受けてきた。

その一方で、自然災害も多かった。津波、台風、地震が起こる度に、日本人は自分の生活を破壊されてきたことになる。同じ自然環境がもたらす恩恵と災害、それらは人間の手の及ばないところで発生する。物質的自然は、日本人を時に生かし、時に殺す、抗えない存在だった。そこで生まれるのが物質的自然への感謝と恐怖、畏怖、畏敬といった感情であり、日本人は自分たちの生命が物質的自然に内包されているという自我を長い間持ってきたのだ。

物質的自然と距離が近い分、それに対する共感や、自分の心情を自然現象に投影するといった心理的交感が日本人の文化になった。それは和歌俳句の文化であったり、花見だったり、物質的自然の移ろいを諸行無常と捉えて儚むといった感応性質だ。言い方を変えれば、日本人は自分の心を自然世界と一体化させていった。

キリスト教を土台にした西洋文化では、物質的自然とは神に与えられた人間が管理する「もの」であり、人為的世界と自然世界ははっきりと区別されていた。だからこそnatureの語も生まれた訳だ。西洋文化は物質的自然を客体として考え、それは科学の研究対象であり、人為が加わっていない無秩序の現れでもあり、人間にはそれを管理する責任が負わされているという考え方だったのだ(もちろん現代になり、極端なアンティーク思考が緩和されてはいるだろう)。

日本に話を戻そう。そしてここからが、何故日本で鳥獣管理をやりにくいのか、そして「日本人は自然環境保全への意識が薄い」と思われてしまうのかという要因だ。

物質的自然とは移り変わっていくものだ。そこに人為的介入がなくても、日本では四季が明確に分かれている分、その変化を感じ取りやすかっただろう。そして人間は自然世界に逆らえないことを日本の誰しもが知っていた。その変化を覆しようはなく、また変化しても物質的自然は回復する。そう知っていたからこそ、日本人は変化に対して鈍感になっていったのだ。同時に、おのずから成立している物質的自然にわざわざ人の手を加えるという行為にも多少抵抗を覚えるだろう。自然環境が移り変わるのは当然だ、という無頓着さもあるかもしれない。日本人にとっての「自然との共生」とは、「物質的自然が成すがままで任せること、その中に自分たちが生き続けること」なのではないだろうか。


しかしながら、近現代の物質的自然の変化・変容は、そのほとんどの原因が人為的介入であることを忘れてはならない。自分の都合で自然環境を改変し、その結果生じた問題の解決は自然環境が成すがまま、というのは、少し無責任ではないだろうか。

鳥獣害対策や野生動物保護管理も、日本人が根っこに持ち続けている自然観で考えれば、「人為的管理が必要な理由がわからない」というクエスチョンマークがあるのかもしれない。それが保護管理理論に浸透しにくい理由であり、過剰捕獲行為だと誤解されてしまう要因でもある。その理解不足が、保護管理への消極性、無関心につながるのだ。


ーーー

 

どちらかと言えば、私個人も日本人なりの自然観は濃く持っているように思う。でなければ、野生動物に対してこれだけの(けっこうな)愛情を持たなかったのではないかと思う。

鳥獣害対策、野生動物保護管理という分野の中で、専門家や従事者、農家や農家以外の住民といった関係者には、等しく情報が与えられている訳ではない。それが、対策連携などがうまく運ばない原因でもある。

だからこそ最も必要とされているのは、専門家や自治体だけに留まらないより大勢の人々への情報周知と、今までの考え方を刷新するべきなんだという意識改革なのだと思う。それは決して従来の自然観を否定するものではない。かと言って全員が対策管理を容認できる訳でもないだろう。ただ、まるでネグレクトのような自然環境の放置主義をやめようと考えるだけで足りるはずだ。

私も、情報発信を続けていく。よりわかりやすく、より広く、野生動物と共に生きてくれる同志を増やしていきたい。







『日本人の自然観:自然を客体視できない心性についてー文学史的観点を中心に』榎本 博明
『日本人の自然観ー西洋との比較ー』渡辺 正雄
『日本人の動物観と狩猟の動向に関する考察』東海林 克也
2021.3.11

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?