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「学校」という枠の内と外

#インクルーシブとは

こんにちは!

井川ともみです🌈

今日の葉山は朝から雨が降っています。
昨日もほぼ一日降っていたので
雨ばっかり
というような氣分になっています。

昨日は小学校の修了式

担任の先生に誘われて
次女と一緒に修了式から参加する予定でしたが
先週末から久しぶりに次女が体調を崩していて

修了式は断念して
最後のホームルームだけ少し参加しました。

久しぶりの教室

まぁ教室には入れなかったので
廊下からの参加でしたが
みんなが声かけたりしてくれて
フラットに接してくれる
子どもたちが
尊く感じました。

そして、午後は
葉山町教育委員会主催の
学校教育シンポジウムへ

毎年大体この時期に開催されていて
昨年はオンラインで参加しましたが
今年は
「みんなの学校」映画も上映されるということで
リアルで参加しました。

そもそもこのシンポジウムは誰に向けた企画なんだろう?

昨年からの疑問。

もっと町民に広く周知し
みんなで参加できたらいいのにな、と感じていました。


今年参加してみて
基本は学校の先生方の研修的な位置づけなのかな
と思うとともに
広く地域に開いていく
連携を強めていく
現教育長の意気込みを感じる内容でした。



映画「みんなの学校」はご存じの方も多いかと
思いますが
大阪市の大空小学校という学校が舞台になっています。
普通の公立小学校ですが
いわゆるインクルーシブ教育を開校当初から実践していて

支援が必要とされる子どもたちも
みんな同じクラスで学びあい
学校の先生方が担任の枠を超えて
すべての子どもを見守る

というスタイルをとっている学校です。

その初代校長先生
木村泰子元先生を中心に
大空小学校の一年を追ったドキュメンタリーが
みんなの学校でした。

関西弁いいですよね~

なんか
私は関東にずっと住んでいますけど
山口県出身だし
友達も関西人が多くて
関西のノリと関西弁が好きなので

学校の先生と子どもたちが関西弁で屈託なく話している
だけで
ほっこりします。

距離感が近く感じるというか
不思議ですね。


で、まぁ色々感じました。

学校の一年間を追いかける中で
切り取った部分が映画になっているので
もちろん真実だけど
それだけの世界ではないとは思いますが

結局は学校ありきの学校の内側の世界の話

です。

それがいいとか悪いとかおかしいとか
そういうことが言いたいわけではありません。

批判するわけでも否定するわけでも
もちろんありません。

学校がなくてもいいと思っているわけでも、私はありません。

でも
そもそも学校というところはこういうところだよね
と改めて
見せつけられたような氣がしたのです

シンポジウムの休憩時間に渡された質問用紙にも書きましたけど

支援(配慮)が必要な子

支援が必要ではない子

分けて呼んでいる時点でそもそもインクルーシブというのだろうか。

インクルーシブの意味は、「すべてを包括する、包みこむ」ことです。 障がいの有無や性別、性的嗜好、人種など、私たちには同じ人間であっても様々な違いがあります。 このような違いを認め合い、すべての人がお互いの人権と尊厳を尊重し合いながら生きていく社会をインクルーシブ社会といいます。 共生社会と呼ばれることもあります。

Google


支援(配慮)が必要じゃない子、人なんて存在するのだろうか?

映画が終わってから
木村泰子元校長先生を大阪から葉山へ
お呼びしてのパネルディスカッションで

稲垣教育長から「普通」ってなんだろう

という
投げかけがありましたが

支援が必要ではない子は「普通」な子なのか?
支援が必要な子は「特別」な子なのか?

定義、言葉の問題?

のようで
そうではない
私たちが何となく感じてしまっている
勝手に作り出してしまっている
概念、枠
のような氣がするのですよね。

で、学校の問題点は

みんなで一緒に同じことをする

というところにあると私は思っています。

みんなで一緒に同じことをするから
同じことをできない子も一緒にやるために
「支援」
しないといけないわけです。

みんなで一緒のタイミングでできないんですから
みんなと同じようにはできないんですから

同じようにする、やる

ことが前提になっているから
できないことを「支援」してできるようにする

となってしまう氣がします。

それが「教育」なのでしょうか?

「教育」の本質なのでしょうか?

そもそも違うのだから
同じことなどできないのだから

同じことをやらせなくていいんじゃない?って

私は思っちゃうんですけど😂笑


みんなと一緒に同じようにやる

今のこの学校教育そのものが問題だと思うし
それはインクルーシブであるかどうかの話ではなく

みんな違う子どもひとりひとりの学びをどう捉えるか
という
もっと広い話だと思うのですよね

という意味で

学校の内と外

内側で見る世界と
外に出て見てみる世界が

違う

違いすぎる

と私は感じています。

なので
昨日の映画もそのあとのシンポジウム
パネルディスカッションも

学校という枠の内側の話です。

じゃ、外は?

地域の人たちが
土となり
学校を育んでいく

異動で現場を離れることがある先生たちと
成長していなくなる子どもたちは

ここにずっと根を下ろして生きている
地域住民がとなって
地域の学校を見守りながら育んでいく

たぶんそれこそが学校が、公教育が地域にある意義です。

教育の主の場である家庭と地域(社会)をつないでいく
学校
という場は地域に必須です。

でもじゃあ
その学校から外れてしまった子どもたちと家庭はどうするの?

やっぱり私はここに戻ってきます。

今回の映画でも
そのあとのパネルディスカッションでも
そのことに関しては触れられませんでした。

まぁ
当然といえば当然かもしれません

「学校教育シンポジウム」なのでね

でも
地域で生きている子どもたちが
みんな学校に当てはまるわけではないんです。

学校へ行きたくても行けない子どもたちもいるんです。

学校の内側の改革は急務です。

特別支援級
通常級

そんな呼び方、分け方もなくしていく必要があるでしょう。

先生1人が生徒30人を教える
という担任制度
教室運営の在り方も
地域の住民がどんどん入っていくことで
変わっていくでしょう。

でもその改革と一緒に
学校から外れてしまった子どもたちのサポートも
一緒にやってほしいのです。

学校がよくなったら楽しくなれば不登校がなくなる?

ほんと?

それ、一体何年後の話?

子どもは成長するのだから
すぐ18歳になってしまいます。

あえて言わせてもらうなら
インクルーシブ教育
と謳う以上

誰一人として取り残さない

学校にいるいない関係なく

葉山で生きている、成長している子どもたち
全部を
インクルーシブ(包括)して欲しいと感じました。










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