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思いの伝え方

先日、ショッキングなできごとがありました。
高次脳機能障害者のためと謳いながら理解も考慮もされない現実に直面し、やりきれない思いを抱えてここ数日を過ごしています。

まだ感情が整理しきれていないのでこのことについてはもう少し後に書きたいと思いますが、今回のことで整理がつかないまま蓋をしていた気持ちを思い出してしまいました。

「自分にはわからない」の続き

回復期入院中、落ち込んだことがありました。いつもは言語聴覚士の先生に話を聞いてもらって気を紛らわせていたのですが、その日は理学療法のリハビリが始まっても身が入っていなかったようで
「今日のリハビリは中止」と言って前庭に連れて行かれました。

そこで少し話しをした後
「自分には後遺症とか障害がないからみどりさんの気持ちはわからない」と担当療法士さんに言われました。

ここまでは何度かブログに書いていることですが、ここから先が自分が封印してきた想いになります。

障害はないからみどりさんの気持ちはわからない、と言われたあとに続いたのは
「でも、あなたには障害があるのだから、障害を持つ人の気持ちは分かるんじゃないですか」の言葉でした。

わからぬままの言葉

一体何を言われたのだろう?しばらくは事態が飲み込めませんでした。
なぜ、この人は私の気持ちがわからないと言ったのか。

さらに続いた「障害があるから障害を持つ人の気持ちがわかる」
これはどういう意味なのか?
頭の中が?で埋め尽くされていました。

けれどその事には特に触れないままリハビリの時間は終わりました。

封印した想い

その後は何事も無かったようにまた筋トレの毎日となりました。
けれども私の頭の中はしばらく混乱したままでした。

「障害を持った人の気持ちがわからない」
ならばこの人はなぜ療法士という仕事をしているのだろう?そう思いました。

「障害があるから障害を持つ人の気持ちがわかるでしょう」

確かに障害をもったから味わった苦い思いは持たなければわからなかったものです。
でも障害にも色々あり、受け取り方も様々です。
同じような障害があるからといって同じ思いではありません。
障害があるから障害を持った人の気持ちがわかるなんて一概に言えないと思います。

更に言えば「障害を持ったからこそわかる」そう思うようになったのは退院後の日常生活を送る中でのことです。
それは自らが感じることであって、他人から、ましてや医療従事者から押し付けられることではないと思います。

混沌とした気持ちのままリハビリを続けていくのが嫌で、その言葉に蓋をして来た気がします。

ブログを始めるきっかけ

ブログを書き始めるきっかけとなったのはある方の
「当事者にしかわからない気持ちってあるのじゃない?そういうことを発信してみたら」という言葉でした。

"当事者にしかわからない気持ちがあること"と"障害があるから障害を持つ人の気持ちがわかること"とは内容は似ているのに受ける印象が違いました。

「当事者の‥」と言われたときには"ブログでも書いてみようかな"という前向きな気持ちにさせられました。

一方の「障害があるから‥」の時はやりきれない気持ちになり蓋をせねばならないほどでした。それはなぜか?

一つには自分自身が"当事者にしかわからない気持ちがある"ということを実感し、それをわかってもらいたいという気持ちを持っていたからだと思います。

さらに言えばその言葉を伝えてくれた人が
"その思いを知らない人に伝えることで知らない人が理解するきっかけになるのでは"?
と語ってくれていたからです。

あの時の療法士さんも
「障害がない自分たちにわからない思いを伝えて欲しい」と言ってくれたなら変わったかもしれません。

担当者の気持ちは違うところにあったのかもしれませんが、私には受け取ることが出来ませんでした。

真意はいったい

今回蓋が開いてしまったのは高次脳機能障害が全く理解されなかったという経緯からです。
高次脳機能障害、見えない障害であるが故に悲しいほど理解されないです。

知識があるはずの医療の現場でさえそうです。同じ障害を持った人にしかやはりわかってもらえないものなのだろうか。そう考えたときパンドラの箱が開いてしまいました。

当時「あなたはあっち側の人間なんだから自分には理解できない」と言われたように思いました。
健常者と障害者の間には線が引かれていると言われたような気がしたことを思い出してしまいました。

後に「障害を障害として受け止めないと」と言った経緯を考えると、障害受容できていない私を見兼ねての言葉だったのかもしれません。

それとも言葉足らずだっただけで、実は落ち込んでいる私への励ましのつもりだった?

「落ち込んでる時にリハビリやめて話をしたことがあったよね」
と2~3度言われたことがあるので、もしかしたら彼なりに寄り添いの言葉をかけたつもりだったのかもしれません。
もしそうだとしたら、その思いは伝わらずに終わったことになります。

決して悪意を持った人ではなかったと思います。
けれど会話がいつも中途半端で結論を言わずに聞き手に任されてしまうような所がありました。

入院中はどうしても精神状態が不安定だったため、結論を言わぬままの言葉は私の中でネガティブな方向に捉えてしまいがちでした。

相手がどう捉えているかまで考えずに言葉を発していたのかもしれませんが、もう少し慎重にそして結論まできちんと話して欲しかったと思います。

色々な寄り添い方

寄り添うといっても色々あるなと思っています。
近所でお世話になっている療法士さんに
「パンドラの箱の開いちゃったんです」とこの経緯を話してみました。

すると
「何ですかね?その人その日すごく機嫌悪かったとか?」
と思わぬ答えが返って来ました。
「いやいや、違うと思うけど」
なんて言っていると、先生が手を何やらパタパタ。

「何してるんですか?」と聞くと
「ほら、パンドラの箱が開いちゃったっていうから蓋を閉めてるんですよ」と。
どんよりしていたのに思わず笑ってしまいました。

茶目っけたっぷりの先生で、落ち込んでいると笑わせようとしてくれます。でも悲しくて泣いてしまった時はそのまま泣かせてくれます。
遠方の自費リハの先生とは違うけれど、この先生にも寄り添われているなと感じます。

今年を振り返ると精神的になかなか厳しい一年だったと思います。
でも、こうして色んな方に支えられてきた一年でもあったと思います。

これから先自分に何ができるのかわかりませんが、もう一度真意の分からぬままの言葉は箱にしまって、来年は誰かにちょっと寄り添えるような存在になれたらいいなと思っています。