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本人の意思は?

最近X(旧Twitter)を通して文字や音声で当事者の方とやり取りすることが増えました。転院時や退院時にソーシャルワーカーさんからどんなアドバイスを受けた?などと聞かれて驚いたりもしました。いろんな方との交流を通じて知識が得られたことが良かったり悪かったり。その度心の揺らぎを感じています。


急性期からの転院

急性期からの転院時、回復期へ行くかどうか、行くとしたらどこに行くのか、本人への聞き取りは全くありませんでした。
あったのは担当の理学療法士さんからの
「回復期に行った方がいいと思うよ」のアドバイスだけでした。

目の手術もあったため発症から2ヶ月が経過しており、意識もはっきりしていました。
けれど医師からの説明も、ソーシャルワーカーさんとの接点もないままに転院は決定し回復期へ行くこととなりました。

回復期の退院決定

こちらも急性期の転院同様でした。
病院から駅まで歩けたら退院を考えましょうということで、リハビリの時間内に駅までの歩行訓練が行われました。そして終了したところで家族と医師、担当療法士、看護師、そしてソーシャルワーカーで退院の検討が行われました。

コロナ禍なので本人は参加できないと病院側から言われました。
コロナが騒がれ始めてから2年半が経過しており、zoomによる面会などが行われている病院もありました。
なのになぜ?患者本人だけが参加させて貰えなかったのか今となっても疑問です。

日々接するのはほとんど療法士さんだけでした。
看護師さんと顔を合わせはしますが会話する時間はほとんどなかった気がします。医師とは顔を合わせることも稀でしたし、会話らしい会話もなかったかと思います。
退院決定は療法士さんだけの判断なのか、他の医療従事者の見解も入ってなのか私には質問する機会も与えられませんでした。

退院後について

「退院が決まりました」と言われてから当日まで1週間とありませんでした。
待ち侘びた退院ではありましたが、自宅での生活をイメージする暇もなく不安でいっぱいになりました。

担当療法士さんは
「リハビリはもう必要ないからジムに行け」
の一点張りでした。

ジムに行けといわれても本当にそれでいいのだろうか?
今後どのくらいのどんな運動が必要なのか目安がほしいと訴えました。その結果、退院前日、リハビリ終了時に「退院時リハビリメニュー」と印刷された冊子がポンと手渡されました。

なんの説明もなかったため、その冊子に書かれていることを毎日やらなければならないのか何もわかりませんでした。
実際に自宅でやってみると、全部やったら1時間半ほどかかるメニューでした。家事をこなしつつ毎日それを忠実にやってへとへとになっていたことを思うと今は馬鹿みたいだなと思います。でも何故かその時は
「渡されたからにはやらなければいけない」
そんな思いに囚われていました。

情報も選択権も

もしも退院決定の話し合いに同席させてもらえていたら、それぞれの医療従事者の方に色んな質問ができたのではないだろうか、と思うことがあります。

退院後のリハビリに通所や訪問そして病院などいくつもの種類があることも知りませんでした。
自分には何が必要で何が選択ができるのかもわかりませんでした。

情報が与えられ自分で選択することと、選択権どころかなんの情報も与えられないこととは全く意味が異なると思います。

同じ結果を辿ったとしても、自分で選択したことならば納得もいくと思うのです。
そういう意味において退院決定の場に患者本人が置き去りにされたことはいまだに納得がいきませんし、その後のリハビリを含めた生活については悔いが残っています。

本人の意思と家族の意向

医療における本人の意思とはどこまで尊重されるべきでどこまで尊重してもらえるのだろうかと考えることがあります。

終末期の高齢者の胃瘻問題などは最近では耳にすることも多く、本人の意思と家族の意向についての難しい問題だと感じています。

Twitterで見かける後遺症を持つ当事者の「あの時助からなければよかった」という思いと、それを聞かされる家族の思い、これも本当に難しい問題だと思います。

私自身、後遺症を持って生きることが辛くてこの言葉を何度となく家族に投げてしまったことがあります。

それどころか、私はくも膜下出血を起こす以前から
「後遺症が残る恐れのある怪我や病気の場合には治療をしないでほしい」
エンディングノートにそう書いていたため、
「なぜ治療をしたのか」そう夫を責めたことさえあります。

はたから見たら私の後遺症など軽度だと思われることと思います。
実際にエンディングノートに書いていたのに治療が行われてしまったことを回復期の担当者に話した時には
「後遺症と言っても色々ですし、みどりさんくらいの軽度で済むこともあるんだから」と言われました。

でも後遺症の受け止め方は人によるのではないでしょうか。
後遺症の度合いに関わらず「生きていきたい」と思う人「生きていたくない」と思う人。それぞれの価値観ではないかと思っています。

もし今、同じくも膜下出血を起こした状態にあったとしたら、自ら救急車を呼ぶことはしないだろうなと思います。
この一年半、あの時助かって良かったとは未だ思えてはいないから。

それだけに、ここから先も自分の身に何かあったとしても、自分の意思ではなく家族の意思が優先されてしまうだろうことに不満を感じています。

けれども家族の思いを無視することもまた違うのかもしれない。そんなことも考えるようにはなりました。
繊細かつ大切なこの問題は、平時にこそ家族できちんと話し合っておくことが必要だと思います。

本人の意向を聞くこと

生死に関わる問題は難しいところもあるとは思います。
ただ現在、例えばがん治療においてはどういう治療をするのかについてはきちんと説明がなされ本人に選択権が与えられつつあると思います。

なのになぜ、急性期から回復期への転院、そして回復期の退院に於いて全く情報開示されることなく本人不在のまま終わってしまったのかはやはり納得がいかないと思っています。

意識がはっきりしていて判断力もある状態であれば、その後の生活を納得した上で送る上でも、情報を開示し本人の意向を聞くことは必要不可欠だと思います。