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意味や理由が無くては不安でしかたない。






5120mmのコーリアンの天板を食卓からキッチンまで通しで敷きたくて、床レベル上げる予定。

よくあるやつです。

床上げの蹴込み部はステンレス板のヘアラインをベタっと貼ろうと思ってます。

天井と壁はSK化研のFMT-01Aの塗装ムラのできやすいものを。

ムラ感出して、ピントが微妙に朧げになる感じが必要なので、PORTERS予定でしたが、VEでSKになりそうで。

予算と質の釣り合い。

床は塗装ムラに合わせてサンゲツの長尺を検討してて、施設用の高耐久で2mm厚のミスト。

これも予算の釣り合い。

絵や彫刻や器が好きな施主で、毎回の家の打ち合わせは15分程度で終わって、あとは文化芸術について猥談してます。

最近の僕のテーマが「普遍」で、特に絵は機能もなく触れることもないため、我々が生み出してきたすべてのものの中で最も「普遍」に近い存在だと思う。

特に最近生み出されているものの殆どに意味や機能がつけられてしまって、それは同時に人の行動すべてにも意味や理由が必要になってしまっているわけで。

人の持てる密度は決まっていて、その殆どがヒトモノコトで埋まってしまっているように感じる。

スマホを手にして、社会システムに組み込まれてしまってる我々は、意識的に空を作り出すしか逃れる術はないのだけれど、方法論としてのマインドフルネスは空を先に作らなくてはならず負のスパイラルから抜け出せない賽の河原みたいな感じで。

世阿弥は空を色気と捉えていて、その概念で砧を見た時にその空の密度は自身の7割程度にしておくべきなのではと想像させる。

「するべき」
「したい」
「しなくてはならない」
みたいな情念を「お面」として表現してる能は、「面を外す」ことで情念からも解放されてるのでは?と考えさせられます。

我々の情念もお面みたいに取り外し可能だったらどんなに楽かと思うわけです。

スマホから離れる時間、仕事から隔絶される空間、他者との関わりから分離された意識を作ることが「空」のスタートラインだと思うのですが、なかなか。

森に行って本を片手に見るでもなく見て読むでもなく読む、みたいな瞬間をどれだけ作れるかが空に近づけるかどうかですね。

ろくろで土を捏ねるとか超最高。

そんなライフスタイルを実現できた時、それは随分アイロニカルに他社からは映るのだろうけど、空を手にした我々は他社からどう見られるみたいな情念からは解放されているはず。

「日常の中の祝祭性」


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