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愛と宣伝の違いについて。

プロダクトを制作する上で、プロモーションも考えていかないといけない。

売る目的で制作するのであれば、どう届けるかまでを含めてデザインすべきと思う。

企業とのタイアップでの作品制作なので尚更。

プロモーション方法はざっくりと50程度の手法がこの世にはあって、どれを、どの組み合わせを、どのタイミングで、どのくらいの期間で、どこに向けて〜を考えていくとその組み合わせは随分複雑で豊富。

それはそれで企業にお任せして、僕は筋が通ってるかどうかだけは眺めるのだけれど。

そんなことよりも気になったのは、愛と宣伝の違い。

宣伝の過多で胸焼けする現在において逆効果になりかねなくて、とはいえその中でもプロモーションを感じないケースも稀にあってそれは一体何なのか?を考えさせられる。

おそらくそれは解像度。

例えばTシャツで言うと、「Tシャツ作ったので買ってください」はプロモーション。 

解像度を上げて、「このTシャツの繊維の細さと産地に拘った」みたいなディテイルは愛。

逆に解像度を下げて、「このTシャツで世界が豊かになると確信している」みたいに抽象化させるのも愛。

解像度を変えないままにただの情報を垂れ流せばもちろん目障りなわけで、その情報と愛の境界線はやっぱり存在する。

この世の情報が愛に変換されることを強く願う。

空間や家具などの道具をデザインをしていくにあたって、その使われ方にも目を向ける。

我々が作る道具は積極的に使いこなすか、受動的に使われているかのどちらかで、どちらにせよ使うことで社会と自分との関係を作り出す。

2010年代から徐々に、道具にとっての主人だった我々も、我々にとっての主人が道具になり始めている。

それは個人の自意識の支配と等しくて随分と末那識的で、ある種の共生関係で、とてもナチュラルな事だと思うわけです。

川がなぜ流れるかなんて気に留める人がいないのと同じで、我々の身の回りの道具は作り方も構造もわからないようなブラックボックスに向かっているのだけれど、日に日に便利になっていくような不思議な世界なわけです。

とは言え、今後も我々はものづくりを続けていくことが予想される。

そしてこの先作られていくモノ達も共生的で持続的なものが多くなっていくと予測できる。

僕自身もものづくりに携わる1人なので、環境を豊かにするための想像力と機会を与えられるよう道具たちを作ろうと心掛ける。

これは非常に重要なこと。

とて、そんなことも全て忘れて何使えば良いかわからないようなガラクタやゲテモノなどがどこからともなく生まれては消えてを繰り返すような世界観も随分と好きなわけです。

1日に中で1分でも長く意味のない時間を作れるかで美しいガラクタを生み出せるかどうかが決まる。

新しい価値は理解不能なことが多いですし、僕はそれを作りたいと思うのです。


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