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8/2 三つ子の魂百まで

 小さい頃から人に勧められた本を読むのが好きだった。
 自分では絶対に選ばない、興味が湧かないものを手にするのは、相手のことが知りたかったからだ。本だけじゃなく、音楽や映画、趣味の世界もそう。触れて、同じように感覚してみたいと願う。

 相手の好きな世界にダイブすると、相手が何に惹かれたのか、どんなことを考え、何を大切にしているのか感じられた。少しだけ近づけるような気がした。
 でも、それは私と相手の違いをはっきりさせることにもなった。同じものを見聞きしても、印象に残るものはそれぞれ。熱量も全然違う。相手は私の感じたようには感じていない。私は相手の感じたように感じることはできない。どこまでも私が私であることがクッキリする。あたりまえのことだ。

 勧められたことがきっかけで好きになることもあれば、どんなに触れても興味が湧かないこともある。周囲の影響でポジティブに触れる機会が多かったからといって、好きになるとは限らない。
 子供の頃の私は気づいていなかったが、私が好きだったのは、ものではなく人。目の前の相手だった。ものはツールでしかなく、いつもその先にいる相手が知りたい。相手にも私を知ってもらいたいと願っていた。

 その性質は今も変わらない。本は作家読みするし、映画も同じ監督の作品を遡る。どうして、何を思い描いて書いたのか。どんな人なのか知りたがる。アプリやTwitterでお気に入りのレビュワーの薦める作品を手にし、感じたことを分かち合えたらと願ってそっとレビューを出す。
 ただ深く分かち合える相手に巡り逢うことを求めて、書いているのかもしれない。
 三つ子の魂百までなんだなあ。


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