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人生の階段

私にもあった人生の階段。人それぞれ、急なのや緩やかでも終点が分からない階段、一段ずつの高さが違っていてつまずいたり転げ落ちたり…。

目の前の階段を進むのみ、いつからおとなになったかは人それぞれですが、20歳を区切りにと言われても果たして…。

いまだに自分の中にはこどもがいるようですが、それを外に出さないだけ。

おとなぶるほど若くもなく、もうとっくに完成していないといけない世間体のおとな年齢であっても、その無垢な心は捨てる必要はありません。

幼いという言い方とは少し違って、純真?

からだは老いても心はいつまでも磨けば瑞々しさを取り戻せます。

老いが醜いのではなく、熟成と考えればそれはまた魅力になります。

小さな子供に接することは純粋に触れるということ。

何のためらいもない瞳に心洗われます。

階段は登るばかりではなく、その場で休んだり、時として幾段か降りることが出来ます。

エスカレーターではないのですから自分の意思で、そこは調整できます。

かけ上がることも一段一段ゆっくりと登るのもその時、年代で違ってきます。

時は永遠と勘違いしていたことに気が付き、自身の命さえも。

祖父母を送り、両親も。

よく年老いた人は次は自分の番と言っていましたが、周りをみればいつの間にか私がその先頭に近くなりつつあります。

いろんなことが分かったようで実は何も分かっていないのかもしれません。

普通の毎日、家族のたわいもない会話が今では遠い昔になって、もう戻ってこないことに少しの寂しさと、懐かしさが相まって思えばこんな上まで登って来たんだと。

今日、ともだちから電話がありました。5年ぶりです。

同年代、同じような環境。聞くと舌癌の手術に次いで足の壊死。何度も死の恐怖を克服してきたと淡々と話す彼女に驚きました。うまく話せない様子ですが、ちっとも暗さはありません。

あんなに毎日屈託なく笑っていた彼女が苦しんでいたなんて想像もつきません。しかしそれが人生。彼女も階段を上がってきたのだと。同志のような気持になりました。

「元気で良かった!」彼女から言われた言葉は、そのまま受け取るには申し訳ないような、ありがたいような、そして重いものがありました。

大変な状況のはずなのに友達のことを思えるのは彼女が立派なおとなであることの証拠です。

曇り空の朝、滑り台のてっぺんにカラスが1羽。今日は生ごみの収集日。ニケは草むらに入って何度か私を見ます。

まだもう少しここに居たい合図なのか、「いいよ!」の一言でちょこっと尻尾を振りました。雨の降らないうちに帰ろうね!

今日もいい日にしましょう!







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