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『街とその不確かな壁』(村上春樹著)を読んで

村上春樹さんの6年ぶりの長編小説『街とその不確かな壁』。すでに色々と紹介されているのでご存知の方も多いと思うが、文芸誌『文學会』に1980年に発表された中編『街と、その不確かな壁』をリライトして完成させた小説だ。
 
ネタバレにならない範囲のあらすじはこんな感じ――。17歳当時の「僕」が、本当に想い焦がれていた16歳の少女がある時ふと姿を消してしまう。その少女が思い描いてきた想像上の精神世界である「壁の中の街」に行ってしまったらしい。その街では誰も影を持たない。その代わりに世間日常の煩わしさや精神の高揚や堕落、そして時間とも無縁の静謐な暮らしを続けているという。40代になった「僕」はどうしてもそこへ行きたいと願い、壁の中と外を彷徨うパラレルワールドが展開する――。
 
僕はもしかしたら、世間では“村上マニア“と言われるような存在なのかもしれない。自分では決してマニアックとまでは思っていないのだけれど、村上さんの小説、エッセイの類は基本的にすべて読んできたし、小説に至ってはほとんどのものを2度か3度は読んでいる。ちなみに昨年から「聞く本」のサービス、audibleにはまっているのだが、その中では村上さんのかつての小説が次々と配信されており、順次それを聞いているところだ。
 
ではあるものの、上記の1980年の雑誌は読んでいなかったし、村上さん本人が当時納得いかなかったという理由で、その後、本に収録されるされることもなかったために、いわば幻の小説だったわけだ。
 
概要は冒頭にざっと書いた通り。テーストとしては『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(ちなみに個人的にはこれが一番好きで、そういう村上ファンは結構多いと思う)に近い要素が含まれるが、後で加えることになったという第2部以降はかなり趣の違う展開をみせる。最近audibleでかつての小説を聞き返しているために特にそう思うのかもしれないが、色々な小説のモチーフが少しずつ入り込んでいる印象もある。
 
『街とその不確かな壁』には珍しく村上さん自身のあとがきがついている。どうしてこのようにリライトする経緯になったかが簡単に綴られている。当初の『街と、その不確かな壁』をスリリングな冒険談としていったん昇華させてみたのが『世界の終わり……』だったということらしい。今回の新作長編は、冒険談の要素はかなり取り除き、より精神世界の内面へと入り込んでいったように、僕には感じられた。
 
さて、こんなふうに書いてきて、今さらながら思うのは「同時代を生きていること」の幸せだ。本来、よい本というものは時代を越えて読み継がれていくものだが、同時代を生きていればこその楽しみは、その作家が(場合によよってはそれは音楽家でも落語家でも、あるいはプロ野球選手であっても)、時代によってどのように変遷してきたかを同じように体験できることだ。当然だが、今から夏目漱石の同時代を生きるわけにはいかない……。
 
ざっくりとした理解では、村上さんの場合、デビュー当初の独特の乾いた無国籍的文体による寓話的、あるいは精神世界的な小説が、1995年の阪神大震災やオウム真理教事件を契機に変わっていく。社会にコミットする、そこから目を背けない方向へと大きく転換したのだと思う。新作の『壁とその不確かな世界』は、半面では精神世界的小説への回帰であり(まあ、初期の中編を書き直したのだから当たり前といえば当たり前だが)、半面では90年代以降の社会へのコミットを維持しているという側面も併せ持つ。
 
こんな話をお酒でも飲みながら色々な人としてみたいのだけれど、日常は慌ただしいし、これにとことん付き合ってくれるような人も間近にはなかなかいない。そんなことでとりあえず“壁のこっち側”に自分の街を作ってでnoteに書いてみたという次第である。やれやれ……。


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