全米男性会議 と フレッド・ヘイワード(3)【フレッドの体験】

シリーズ『全米男性会議とフレッド・ヘイワード』の第3回です。

下村満子さん による 『男たちの意識革命』(朝日文庫,1986年)の中に収められている、『おれたちは女のための “カネ生み機械” じゃない』(pp.155~168)の内容を紹介していきます。

※ 過去記事(未読の場合、ぜひ併せてお読みください!)

1981年の第1回全米男性会議で基調講演を行った、フレッド・ヘイワードさん(当時35歳)は、アメリカの男性運動のリーダー的な存在でした。今回は、彼が男性運動に熱心に取り組むに至った経緯や理由を解き明かすことを目標に、彼のしてきた体験や抱いてきた思いを辿ってみることにしましょう。このことは、男性問題そのものの考察にも役立つのではないかと期待しています。僕自身も、この記事を書くことを通して、考えを深めていければと思っています。


生命を軽んじられる性 / 犠牲を強いられる性 としての「男性」の自覚

(1)朝鮮戦争での米兵の死のニュースから

フレッドさんが6歳のころ、ちょうど朝鮮戦争が行われていました。この戦争は朝鮮半島の2つの国(=大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国)の間での戦争ですが、アメリカ軍も大韓民国軍と一緒に戦闘に参加していました。
そして、多数の兵士が生命を落としていきました。
そんなニュースを見ていたフレッド少年は、とても悲しい思いをしました。彼は6歳にして、生命を軽んじられる性 / 犠牲を強いられる性 という、「男性」という性が孕む1つの(ネガティブな)側面に気づいてしまったのです。このあたりのことが、『男たちの意識革命』の中にも綴られていますので引用します。

ちょうど朝鮮戦争のただ中で、ラジオの二ュースは連日、戦死した米兵の数を伝えていた。フレッドは、子供心にも、ぼんやりと、「男というものは、死ななければならないのだ」ということを感じた。「死ぬことと殺すことが、男の役目なのだ」と。そして、とても悲しい気持ちになったことを覚えている、という。
ぼくたちは、そんな小さなときから、無意識のうちにそうした「男の在り方」のメッセージをただき込まれるのです。親が、社会が、映画、テレビドラマ、小説、歴史の本 ―― あらゆるものを通じて、「男というものは、その命をいろいろなもののために捨てなければならない」と教えるのです。国のために、イデオロギーのために、宗教のために、女のために、子供のために ――。

ここでいう、《 親 》には父親・母親双方が含まれますし、《 社会 》には男性・女性双方が含まれることは言うまでもないでしょう。
かつて徴兵制を採用していた国のほとんどで、徴兵の対象となるのは男性のみでした。現在なお徴兵制が残っている国においても、一部の例外を除いては、やはり徴兵されるのは男性のみです。
志願制であっても、軍隊はほとんどが男性で構成されるものというのは事実でしょう。また、軍隊以外でも、肉体を酷使する仕事や、危険を伴う仕事に就くのはやはりほとんど男性でしょう。
人質事件でも災害でも、救助は「女性」・「子ども」・「老人」が優先となり、「成人男性」は最後まで取り残されます。犠牲となって生命を落とすリスクは一番高くなります。
そして重要なのは、このようなことを大抵の人は 意識することもなく 、当たり前のこととして 実行しているのだということです。稀にここに疑問をもつ人が現れますが、それを公にしても、たいていは奇人・変人の戯言として流されてしまいます。
いずれにせよ、「男性」という性に生まれついた人間は、もれなく、生命を軽んじられる役割,犠牲を強いられる役割を、ほとんど無意識のうちに背負い・背負わされている のです。そこに当人の意思など、介入する余地はないのです。

(2)母と姉とのこと ~異性間の暴力に見る《 非対称性 》~

フレッドさんには姉がいて、幼いころの彼は姉からよく殴られていたようです。もっとも、姉弟間の喧嘩ですから、他愛もないものともいえそうではあります。ここでは、この喧嘩に関して、彼の母が発した言葉に着目してみましょう。再び『男たちの意識革命』からの引用です。

ことに男は、命をかけて女を守らなければならない、と教えられます。ぼくには姉が一人います。小さいとき、ケンカになると、姉はよくぼくをなぐりました。でも、ぼくが成長して、姉との腕ずくのケンカで決して負けない年齢になったとき、母はぼくに 「男の子は決して女の子をなぐってはいけない」 と厳しく言い渡したのです。「女の子が男をなぐるのはいいけれど、男が女をなぐってはいけないのだ」と。

ここで大切なのは、フレッドさんの母親が特殊な考えの持ち主であるというわけでは決してないということです。むしろ、彼女の発言は、ある種の《 社会通念 》であり、《 慣習 》なのです。彼女は正義感をみなぎらせながら、「当たり前のことを言っただけ」なのだと思います。
僕としてはこのことをとても悲しく・憤ろしく思いますが、しかしこれが現実なのだということをよく知っています。
「男性」という性は、暴力の対象にすることを許容された性なのだと思います。別の言い方をすれば、「男性は《 暴力の対象にしても問題視されない性 》という役割を背負っている」と言ってもいいと思います。そして、これは、先述したとおり、男性が《 生命を軽んじられる性 》であることとも結びついてきます。
異性間の暴力には、厳然とした非対称性があります。
すなわち、 男性から女性への暴力は認められない 一方で、女性から男性への暴力は認められてしまう(認められてしまいがち) という非対称性です。
これは男性が《 暴力の対象にしても問題視されない性 》であることに由来し、無意識・無批判のうちに社会通念・慣習として根付いていると思います。さらにひどいことに、女性から暴力を受ける男性は、「情けない男」というレッテルを貼られてさらなる攻撃を受けることになります。これではまったく救いがないと思うのですが、どうでしょうか?
僕の意見としては、こうした問題を、意識的・批判的にきちんと考えていく必要が大いにあると考えています。
ただし、前途は多難だと思います。それは、これが 《 法 》の問題ではなく《 慣習 》の問題である というところによります。
《 法 》は、意識的・批判的に従われるものであり、万一法から外れた場合には所定の罰則を受けることになります。また、改正したりする手続きも決まっていて、道筋をつくりやすいといえそうです。
一方、《 社会通念 》とか《 慣習 》というのは恐ろしいもので、そこから外れることだけでなく、疑問を表明することすらも難しいのです。なぜなら、慣習から外れた行動をとったり、慣習への疑問を表明する者は、白眼視された後に集団から排除されてしまうからです。
この記事を読んでいるあなたも、もしかしたら「なんとバカげたことを考えているんだこいつは」とか「あまりにエキセントリックすぎて意味がわからない」とか思っているかもしれません。
ただ、慣習はまったく変わらないものではもちろん無く、じわじわと変わっていくものだと思います。
少し話が膨らみましたが、戦争のニュースや家族とのかかわりの中から、フレッド少年は、生命を軽んじられる性 / 犠牲を強いられる性 としての「男性」を自覚したのでした。

弱く脆く無力な存在としての男性

生命を軽んじられる性 / 犠牲を強いられる性 としての「男性」を自覚したフレッド少年の目には、男性という存在は、実に弱くて脆くて無力なものとして映りました。そして、男性が疎んじられると同時に女性が尊ばれるのが人間社会であり、男性の価値は相対的に女性よりも低く扱われているのだと認識するに至りました。
この辺りのことが、『男たちの意識革命』には、以下のように記されています。

女は男より価値ある存在なのだ。より尊いのだ。フレッドはそう信じるようになった。だから、女性たちが口々に「女性は二流市民」であり「男たちに力で支配されてきたのだ」というのをきいたときは、ぴっくりした。彼はそれまで、男は実に弱くてもろい無力な存在で、女の奴隷にすぎないと感じていたからだ。

この部分に、僕は共感します。少年期の僕はほぼ同じようなことを思っていたからです。そして、今でも、この見立ては間違っていないと思っています。男性には、弱くて脆くて無力な存在としての側面が確実にありますし、こと生命的な価値に関して言えば、男性は相対的に女性よりも低いのは、前節で述べた内容を踏まえれば明らかだと思います。
こういう認識を持っている人間にとって、女性解放運動の言うところの「女性は二流市民」だとか「(女性は)男たちに力で支配されてきた」だとかいうのは、なかなか理解できる視点ではありません。

女性解放運動への当初のスタンス

さて、女性解放運動の視点に大いに驚いたフレッドさんでしたが、その後彼はどういうスタンスを取ったのでしょう。少し予想してみてください。

[ 問題 ]
フレッドさんは、当初、女性解放運動に対してどういうスタンスをとっていたと思いますか?

ア.「賛同する」・「支持する」という立場をとった(積極的賛同)
イ.「反対はしない」という立場をとった(消極的賛同または中立)
ウ.「反対する」という立場をとった
エ.その他(      )

どうしてそう思いましたか?
彼はなぜそのスタンスを取ったのかも考えてみましょう。

この問題の答えにあたる部分を、『男たちの意識革命』から引用します。

だから、フレッドは、基本的に、女性運動に賛同していた。女性がこれまでの固定された役割に甘んじるのをやめ、多様な生き方の選択をすることには、大いに賛成だった。それはまさにフレッド自身も望んでいた生き方だった。

というわけで、正解はア(積極的賛同)でした。
その理由は、「女性が固定された役割から脱却して多様な生き方を選択すれば、男性も同時に解放される」という考えからだったようです。
フレッドさんは、男性の解放を強く望む立場から、女性解放運動に賛同したわけです。

このことを、異性愛者間の恋愛を例にとって述べています。その部分を引用して紹介します。

女性の愛を求めるときも、男は常に、相手が自分を受け入れてくれるかどうかという不安におののきながらも、そのリスクをおしてイニシアチプをとり、女性の前にひざまずかなければならない。女性から一言のもとにデートをことわられたときのショックとみじめさは、たとえようもない。しかし、そうした屈辱に耐えて自ら行動を起こさなければ、男は女性を手に入れることができないのだ。
それにひきかえ、女は、ただ受け身で待っていればいい。リスクを冒すことも、屈辱を味わうこともなく、近づいてきた男を選り分ければいいのだ。いやだったら「ノー」 といえばいいし、気に入ったら「OK」といえばいいのだ。フレッドはそれがうらやましかった。しかし、フェミニストたちは、そうした状況を「女性は男のセックス・オブジェクト (性欲の対象) とされている」と説明して「もう、そんな受け身の生き方はいやだ」と叫んでいた。
同じことでも、立場がちがうと、こうも受けとめ方がちがうものなのか、とフレッドは驚いた。しかし、女性が自らリスクを覚悟で男に積極的に近づいてきてくれれば、男はずいぶん楽になるだろうと思った。男は内心オロオロしながら女性の前でカラ威張りするというストレスから解放されるのだから。

当時のフレッドさんは、「女性解放が進めば自動的に男性解放も進む」と考えていたことがわかりますね。そして、女性解放を声高に主張するフェミニストたちに、基本的には賛同するという立場をとっていたようです。
これは、中高生のころの僕に重なる部分があります。
僕は同性愛者なので、上で紹介したような恋愛の話などは直接的に当事者になることはありません。しかし、生命を軽んじられる性 / 犠牲を強いられる性 としての「男性」を強く意識させられて悩んでいましたし、「女子に苛められる男子」だった僕は、異性間の暴力における《 非対称性 》に苦しんでいました。そして、こうしたことは、女性の自立や、当時クローズアップされていたジェンダーフリーが促進されることできれいさっぱり解決すると、(愚かにも)本気で信じていたのでした。実際にはそんなに簡単なものではないということも知らずに。男性の解放というのが、どれほどまでに難儀ないばらの道であるかも知らずに………。

女性解放運動の欺瞞 と フレッドの憤り

さて、当初は女性解放運動に賛同のスタンスをとっていたフレッドさんですが、やがて方針転換を図ることになります。その辺りの事情を、『男たちの意識革命』から引用します。

フレッドが、 「女性運動は、二セモノだ」 と感じ、 フェミニストたちに怒りを感じるようになったのは、同棲していたガールフレンドとの口論の末、別れることになってからだった。

彼に女性運動の欺瞞をまざまざと見せつけたのは、交際相手の女性でした。
いったい何があったのでしょうか。
『男たちの意識革命』の中では、フレッドさんの視点からみた事の顛末が綴られています。長くなりますが、引用します。

「ぼくたちは、そろそろ子供がほしいと感じていました。そして、われわれの関係を永続的なものにしたいと考えはじめました。彼女は、ぽくが大学院を出ているのだから、 自分も同じ教育を受ける必要があると、大学院に通っていました。そして「子供がほしいなら、今の仕事をやめて、もっと稼いでもらわなくちゃ。でないと、産んであげない」 というのです。自分の学資のほかに、 子供の育児費が増えるからだ、 というのです。私はムッとなって、「それなら、ぼくが家にいて子供を育てるから、キミが働きに出ればいい」といったのです。彼女はそれはいやだというのです。キャリアは持ちたいけれど、それは生活を支えるためではなく、生きがいのためで、子供を育てる費用は男が稼ぐべきだ、というのです。ぼくたちは、そのことで折り合いがつかず、結局別れたのです。」
フレッドが、仕事をすべて捨てて男性運動に身を投ずる決心をしたのはそのときであった。彼女を愛していただけに、憎しみもまた深かった。

以上です。少し話を整理してみましょう。
なお、交際相手の女性を、“女性A”と標記することにします。

・ フレッドさんと女性Aは子どもを授かりたいと考えはじめていた
・ 女性Aは大学院へ通っていた
 (理由 : 「大学院卒のフレッドさんと同じ教育を受ける必要がある」という考え)
・ 女性Aは「子どもが欲しいのなら転職してもっと稼いで来い」と主張
 (理由 : 自分の学資に加えて子どもの養育費も発生するから)
・ フレッドさんは「自分が子育ても家事もするから、貴女が働きに出ればいい」と主張
・ 女性Aはフレッドさんの主張を拒絶
・ 女性Aは 「キャリアは持ちたいがそれは生き甲斐のためである。生活のためではない」 と主張
・ 女性Aは 「子どもを育てる費用は男が稼ぐべきだ」 という考えの持ち主
・ フレッドさんは納得がいかず、結局、破局へと至った

これを入力しながら、僕は、あまりに身勝手な言説を繰り広げる女性Aに対して、わきあがってくる憤りを抑えることができませんでした。フレッドさんもきっと同じ思いをしたことでしょう。そして、破局して正解だったと思います。
ただ、あえて言えば、ここに書かれているのは、フレッドさんの視点からみたストーリーだけです。女性Aにはそれなりのもっともな言い分があるのかもしれません。
それを考えに入れても、やはり根本的なところで何かが欠けていると僕は感じました。そして、これは何も女性Aに限ったことではなく、この手の女性の存在はもっと広範に見られると思います。
女性Aが、大学院で学びたいと考えたり、キャリアを持ちたいと考えたりすることは、自然な欲求だと思いますし、立派な向上心だと思います。僕は、男女問わず、できる範囲で自分の望む生き方をするのがいいと考えています。女性Aの場合は、学問を修めてキャリアを積むという生き方を望んでいるので、そうして生きたらいいと思うわけです。
とはいえ、"できる範囲で" と付け加えた点に注意して欲しいのです。
それは、《 人は一人では生きていないし、生きていけない 》というところによります。
人間どうしが共存・共生していかなければならない以上、少なくとも以下に書いたようなことは必要なのではないかと思いますが、どうでしょう?

・ 自分の権利を主張するのならば、他者の権利も認める
・ 他者に義務を果たすことを求めるならば、自分も義務を果たす
・ 権利を主張するのならば、義務もきちんと果たす
・ 自由に選択するのならば、責任もきちんと取る
・ 自分の権利を満たすために他者の権利を侵害することは可能な限り避ける
・ 自分が利益を得るために他者に不利益を強いることは可能な限り避ける
・ 自分が欲求を満たすために他者に負担を強いることは可能な限り避ける
・ 他者の気持ちを蹂躙するようなことはしない
 (できるだけ、思いやりと感謝の気持ちで接する)
・ 互いに支えあう、助け合うという意識を持つ

人間というのは不完全な生き物ですし、これらのことを完全にできている人などそうそういないでしょう。僕だって出来ていないことがしばしばあります。ただ、その場合、後から振り返って反省したり、必要ならば謝ったりしますし、改善も試みたりはしています。
いずれにせよ、基本的に個人は自分の望むように生きればいいとはいえ、上述したとおり制約も受けると僕は考えています。

女性Aの主張は、この観点から見た場合、問題がいろいろありそうです。

まず第1に、自分の権利を主張しながら他者の権利を認めていません。
(他者に義務を果たすことを求めながら自分は義務を避けています)
女性Aは、「キャリアは持ちたいけれど、それは生活を支えるためではなく、生きがいのため」と曰い、生き甲斐のために学問を修めてキャリアを積む権利を主張しています。
その一方で、フレッドさんに対しては、「子供を育てる費用は男が稼ぐべきだ」と曰うなど、彼が 生き甲斐のために 学問を修めてキャリアを積む権利を認めていません。生活費や養育費を稼ぐための 学問やキャリアは認めていますけれども、それは自分の利益のためでしょう。
「私には自己実現の権利があるけれど、あなたには無いの」とか、「あなたにはお金を稼ぐ義務があるけれど、私には無いの」と考えているのだとすれば、これほど傲慢で身勝手なこともありません。女性は性役割から解放される権利があるけれど、男性は性役割を背負い続けなければならない というのは、不均衡です。ここに女性Aの欺瞞、もっといえば、女性解放運動の欺瞞があるといえそうです。

第2に、自分が欲求を満たすために他者に負担を強いています。
(或いは、自分が利益を得るために他者に不利益を強いています)
女性Aは、自分の生き甲斐・自己実現のために学問を修めてキャリアを積みたいという欲求のために、フレッドさんに対して、生活費と学資と子どもの養育費を稼ぐという負担を強いています。女性Aは、自分が生き甲斐や自己実現という利益を享受するために、フレッドさんには生活や子育てのために馬車馬の如く働く生活という不利益を強いています。
この矛盾に気づいているのか気づいていないのか。いずれにせよ問題です。

第3に、他者の気持ちを蹂躙しています。
女性Aは生活費や自分の学資、さらには子どもの養育費までも、フレッドさんに稼いでくることを要求しながら、自分は生き甲斐・自己実現のための学業・仕事に邁進しています。
この事実が問題と言うより、心根が問題です。先の主張を読む限り、女性Aはこのことを「当たり前」と考えているのは明らかですし、「フレッドの義務」とまで捉えているようです。
いったい、フレッドさんのことを何だと思っているのでしょうか。自分の奴隷か何かと勘違いしているのでしょうか。彼の気持ちを蹂躙しているという自覚はないのでしょうか。

人間は助け合い、支え合うものです。そして、そこには 思いやりと感謝 が根底にあって然るべきものなのです。誰かが困っているのならば、思いやりの気持ちで助けてあげる。助けてもらった人は、その人に感謝する。誰しもが助けたり助けられたり、思いやったり感謝したりする。こうした《 お互いさま 》が、生きやすさにつながっていくのではないでしょうか。
女性Aは、フレッドさんの稼いできたお金で生活し、学問を修めているのならば、せめてフレッドさんに感謝すべきだと思います。フレッドさんは思いやりを形として示しているわけですから。それを当たり前のものだとふんぞり返っていては、人間性を疑われても文句は言えないと思います。
夫が稼いでくるのは当たり前と思っている妻、妻が家事をしてくれるのは当たり前と思っている夫。
これでは夫婦関係など円滑にいくわけが無いでしょう。
そうではなくて、「稼いでくれてありがとう」,「家事をしてくれてありがとう」という風に互いに思っていれば、夫が稼ぎ手で妻が専業主婦という夫婦でもうまくいくでしょうし、実際にうまくいっている夫婦は多いのではないでしょうか。
もちろん共働きでも同じようなことがいえるでしょう。そしてそれは同性カップルでも、兄弟姉妹でも、友人同士でも、ご近所さん同士でも、同じだと思います。
感謝と、思いやり。忘れてしまいがちですが、大切にしていきたいものです。

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今回はここまでです。
次回は、いよいよ、第1回全米男性会議における、フレッドさんの基調講演を紹介していきます。
前回と今回で見てきた、フレッドの体験と味わってきた感情は、この基調講演に強く表れています。
そして、この基調講演は、大きな示唆に富んだものになっています。
女性解放運動が嵌り込んでしまった穴とは何なのか。そしてそこから教訓を読み取り、男性解放運動をどういう形で進めていけばいいのか。
そんなことを考えながら、記事を書こうと思っています。

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