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「正しい」言葉づかいとは

友人に中学校の国語教諭がいる。
とてもパワフルでポジティブな女性だ。そうでないと中学教師なんてできないのかもしれない。

そんな彼女が「最近の子どもは作文能力が低い」と嘆いていた。
確かに、現代っ子は本を読まない、知りたいことは動画で調べるっていうもんね。

彼女によると、例えば「〇〇って」とか「〇〇なんです」のような話し言葉をそのまま作文に書いてしまうのだという。
「それは話し言葉であって、作文では『〇〇とは』とか『◯◯なのです』のような正しい書き言葉をつかうんだよ」と説明しても、「???」とキョトンとされるらしい。

正しい言葉遣いを知らない。読むこともないし、使うこともない、さらに小学生で作文を書く機会も減っているから指導もされてない、などなど彼女の嘆きは深く、私も確かになぁ〜とふむふむしていた。

確かにそうだと思う。

しかし、私自身noteに文章を書くとき、あえて話し言葉を使うことはある。
noteでよく読む記事も、「国語的に正しい」を少しはみ出しているくらいが好きだ。
SNSのインフルエンサーが「〇〇とは、〇〇なのです。」みたいな書き方をしていたら、激しく違和感があるし、インフルエンスできる気がしない。
Webの世界だけでなく、書籍でもあえて崩して書いたり、文法を変えて書くことで読者の心をつかむような文章は多い。

いま世の中で人気があるもの、注目されるものが、「国語的に正しい」ではないとしたら、それは果たして「正しい」のだろうか?
何をもって、先生は生徒にそれを「正しい」と説得できるのだろうか?
「国語的正しさ」を学ぶ必要をどう動機づけできるのだろうか?


うーん。むずい。←話し言葉

こりゃ「国語的正しさ」いらないんじゃないか?と極論を考えていたら、ふと息子の机の上にあった作文を見つけた。

・・・・・・ひどい。

本人の名誉のために引用は避けるが、先程の「〇〇って」を使っているとかそういうレベルではない。
昨年息子が試しに書いてみたnote記事だが、これがそのまま原稿用紙に書かれているイメージだ。

noteで見たら「自由でいいな」と思っていたのに、作文として読むと違和感がすごい。

え、小学6年生だよね?
原稿用紙に書く作文って、もう少しこう…
「ぼくは、〇〇だと思いました。とても嬉しかったです。」
みたいな、無難でつまらない感じじゃないですかね?自由すぎませんか?

自由なのは百歩譲っていいとして、国語的な水準があまりに低くて、とても読みにくい。
「国語的正しさ」を少しはみ出したレベルじゃない。はみ出しすぎ。

リーダーズは大好きである

結論として、やっぱり「国語的正しさ」はある程度必要だと感じた。
やはり0ではいけない。まず読める水準にしてから、はみ出さねば。
ルールを守った上で、個性や自由を楽しむことが大事だと、新しい学校のリーダーズも言っている(大好き)。

息子の時代には、文章を自力で書くという必要はだいぶ減っていくと思う。生成AIに書いてもらったり、そもそもメールやエントリーシートなど、文章で伝える機会も減るだろう。

だけど、日本語は使いこなしがとても重要な言語だ。
一人称がたくさんあるなど、語彙の選択肢が広く、文法や語順の自由度も高い。使い方で読みやすさが変わってくる。
読みやすさだけでなく、書き方次第で美しさや強さなどの効果を生んだり、印象を変えることもできる。
それを使いこなせるってとても高度で、カッコいいことなんだよ。


色々と考えて、息子に伝えるか悩んだが、直せと言ったところで直すタイプではないし、作文を勝手に読んだことに怒り出すだろうから(机に開いておくほうが悪い)静観することにした。

どこかのタイミングで自分で気づくか、指導していただけるであろう。
それに、私は読みにくいと感じたけれど、現代っ子にとっては気にならないのかもしれない。そんな彼らが時代を作っていくのかもしれない。

言葉は変わっていくものだ。
国語の先生は大変だろうけど、正しさの基準と時代の変化の中で、大人も子どもも模索していくべきなんだろう。


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