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大学院(教員たち)の手によって淘汰される修士課程の大学院生として

こんにちは。人間生活ゼミナール(修士課程1年生)です。
23歳にして、荒れた2日間を過ごしてしまいました。

なぜ荒れていたのかというと、やり場のない怒り(アカハラ指導教員の存在そのもの、それから、アカハラを「仕方のないもの」として片付けようとする大学院の態度、私の存在をひたすらに無視しようとする周りの先生たち)と、どうにも昇華しようのない悔しさ(博士課程に進学できないことで、指導教員の思うがままになることが辛くて耐えられないこと、自分の希望が他人のせいで実現できないこと、周りの人間から「ざまぁwほれみろ、お前なんかがw」と言われ続けることが辛いこと)が、自分の中をぐるぐる回って、八方塞がりになったからです。

以下は、読んで気分の悪くなる方がいらっしゃるだろう、ということだけ書いておきます。読んでくださる際は、自己責任でお願い申し上げます(文句・苦情等は、一切受け付けません。)


指導教員から「あなたは誰よりも劣った存在だ」と言われた日

とりわけ、後者の感情については、自分の自尊心の維持の問題にも関わってくる部分なので、非常に厄介な問題です。

私は、なぜだかわからないけれども、研究について、私は、きちんとやり遂げられる!という自信を持っていて、資料調査や語学、日本語構成に関わる基礎的な能力については、自分が直接に知っている人たち、すなわち、今所属しているFラン大学の大学院の人たちや、学部の同期、学部の先輩の中では、優れている方だという自負があります(もしそうでないとしたら、偏差値70を超えるような進学高校出身の人は、何の能力が高いことになるのでしょうか)。「お前、まともな成果はあるんか!」とか、「所詮Fランやんけ」とか、そのように思われる方もいるでしょうが、私のなかの、私に対する自己評価は、このようなものです。もちろん、自分よりも上にいるひとたちの存在は、きちんと認めていますし、そういうひとたちに比べて自分が劣っていることもきちんと認識しています。ただ私は、私が所属する狭い狭いコミュニティのなかでは、私は、優れている方だ、と言いたいだけです(ちなみに、大学院のあまり関わりのない先生に、「お前、大学の勉強ができたからって、研究も簡単にできると思うなよ」と言われたことがあります)。


しかし、私は、私の方が優れていると信じている人たちの誰よりも、劣っているようなのです。すなわち、指導教員から、「あなたは、この大学院にいる誰よりも劣っている存在だ。それなのに、あなたは、傲慢だ。大学院生として、あるまじき存在なので、本来であれば、大学院を辞めなければならない。博士課程に進学する資格はない。」と言われたのです。

この現実が、マジで理解できない。


そもそも、このような、自分はできる!自分は"その中では"優れている!という考えは、心の奥底にしまっていて、このような態度で人に話したり、人を蔑んだりするようなことのないように常に心がけています。それなのに、「あなたは、傲慢だ」と言われてしまいました。実は、このように傲慢だとか、あるいは、性格が悪いなどと言われたことは、これまでに何十回とあるので、どんなに気をつけても態度にうっすらと出ているのでしょう。まぁ、これまでの記事を読んでいただければお分かりかとは思いますが、私は、とにかく性格が悪いのですから。ま、そんな私から言わせていただけば、「あなたが私について傲慢だと言い切れる事自体、おかしい。そういうあなたのほうが、傲慢だ」。


自尊心が肥大しすぎなんですかね?自己愛が強すぎるんですかね?
「私は、ダメな存在です。」「私は、誰よりも劣っています。」「私は、ゴミくずなんで。」「私の生殺与奪の権は、あなたに委ねます。」とでもいえば、大学院の先生は、可愛がってくれるんですか?


私の心にひっかかり続けること

私がとにかく悔しがっているのは、私よりもかなり年上の他学部のOGの存在があるからです。彼女は、弊学を卒業後、一流大学院に(私が所属する学部の先生が特別に個別指導したこともあって)たった一人の特待生(修士課程から、学費免除のうえ、給付型の研究費が修了するまで一定額与えられる)として入学しました。そののちに、修士課程を留年した上、論文を1本も公表することなく、現在、博士課程で休学しています。休学の理由は、結婚や出産といったライフイベントを優先するためです。出産には、タイミングというものがありますから、それがたまたま博士課程在籍中であったというだけで、そのタイミングで休学していることを非難するつもりはありません。しかし、他学部の先生が特別に個別指導し、特待生も取れたわけですから、さぞ優秀なのでしょうし(手をかけるほどの価値があると見込まれているわけです)、だからこそ、妊娠するまでの間に成果を1つ以上あげること(修論の公表など)は可能だったと思います。恵まれている環境が与えられているくせに…と思ってしまうのです。

彼女は、先生から特別に指導を受けられる、それがただただ羨ましいです。私は、これまで、同学部の先生たちに、何度もそのような指導を乞うてきましたが、いつも言われるのは、「あなた、一人でできるでしょ?」ということでした。指導教員はといえば、文句・暴言・否定的な言葉しか言わず、指導を乞えば、「自分一人でやれ、聞くな」とばかり言われます。


結局のところ、彼女よりも、研究に必要な基礎的な能力という点で、優れていると信じてやまないからこそ、私が欲しいものを全て彼女は持っていて(個別に指導を受けられて、希望が叶ったという経験も含む)、私は一切持っていないという現実が受け入れられないのです。
そもそも、自分の方が優れていると考えること自体が間違いなのでしょうけど、自分が劣っていると心の底から認識できる理由が、誰からもあたえられないのです。「お前で考えろ」とか言われたって、わからない。だからこそ、苦しい。


今の私は、限界ギリギリ

経済的なこと

経済的に、今の私は、かなりきついです。学部時代にためた貯金を切り崩して大学院の学費を払っていますし、研究にかかる費用は、バイトしたり、両親に出してもらったりして賄っている状態です。生活費は、もちろん親のスネかじりです。学部時代に仲良くしていた先生からは、このことを「甘えるな、経済的に自立しろ」と怒られました。両親には、ただただ申し訳なく思っています。

学生支援機構の奨学金免除制度を狙おうとも思いましたが、弊学では、どんなに学生支援機構の奨学金を借りている院生がいようとも、一人しか全額免除にならないそうで、半額免除になるのも、たった一人だと、奨学金担当窓口の人から言われました。しかも、免除になる人の選び方として、研究科の持ち回りだそうで、当該年度に対象研究科に選ばれなければ、選考の対象にすらなりません。


学内独自の給付型の奨学金は、通りました。同研究科の中に、他に申請する人がいなかったからでしょう。頂けたことには、本当に感謝しています。しかし、頂いた額というのは、他大学院に比べれば圧倒的に少額です。博士課程になると、さらに少額になります。なお、この少額さは、20年以上前から改善を求められてきていたようですが(学内にあった資料を読んで発覚したことです。他大学院と同水準にまで引き上げるよう訴えの運動があったようです。ちなみに、この奨学金以外に、院生に対する研究助成制度は、ありません。)
この学内の奨学金の応募要件に関する情報をもらうために、かなり苦労をしました。この奨学金の存在は、広く公表されていたため、私は入学前から知っていたのですが、奨学金担当窓口の方は、この奨学金があることを一切教えようとしません。二言目には、『学内独自の奨学金は、ありません』というだけです。そんなに給付型のこの奨学金を出したくないのかと一瞬恨めしく思いました。粘りに粘り、仕方なく『〇〇奨学金は、存在すると、☓☓のn頁書いてありました。これです(実際に見せる)。それでも、ないとおっしゃるのですか?』と聞きました。すると、観念したようで、『はぁーーーーーーっ』と大きくため息を付きながら、奨学金の応募要件を教えてくれました。なぜ学内でそこまでバトルしないといけないんですかね…。奨学金担当窓口の方も、私の「味方」ではないことがわかり、がっかりしました。


精神的なこと

精神的にも、今の私は、かなり追い詰められています。散々嫌味なことを言ってくれた同期や先輩は、今年の春で修了されるので、その点については、ほっとしています。しかし、彼らが残した「負の遺産」、すなわち、指導教員が彼らに対して言えずに溜めていた不満や鬱憤(指導教員は、どんなことがあろうとも、彼らを褒めちぎっていた)を晴らす矛先が、私一人に集中して向けられ始めたということで、私は、かなり追い詰められています。このような「負の遺産」を残していったということを、同期や先輩は薄々勘付いていたらしく、『申し訳ない』との謝罪を受けました。それでも、あなた方がいい思いをしたせいで割食っているという感は、否めません。


ちなみに、私の過去の記事を読んでいただければお分かりかと思いますが、指導教員からのアカハラは、学部3年生の時から続いています。指導教員がしてくるアカハラには、平常運転のアカハラ(研究内容の否定だけをすることと指導放棄)と、指導教員に何かあった時のご乱心アカハラ(人格・性格否定、両親の尊厳まで踏み躙るような発言をする)との2種類があります。冒頭に書いた「あなたは、この大学院にいる誰よりも劣っている存在だ。それなのに…以下略」という指導教員の発言は、後者にあたります。このことを言われた当時、指導教員が昔、特別に目をかけていた OG、すなわち、先ほど書いた女性が、結婚・出産を広く公表した時期でした。指導教員からは、このとき、「博士課程に行って、途中で休学して結婚・出産をするようなことがあれば、それは、完全にこれまでお世話になった教員たちへの裏切り行為だ。あなたは、そのような可能性を完全に否定しきれるのか?」と強く言われました。私は、当該 OGと指導教員との関係性が一般的なものよりも深いものであったことを、 OGの公開SNSから知っていたので、「やっぱりな」と思いました。というか、これって、博士課程への進学を引き換えに結婚・出産を諦めろ、ということですよね?これは、セクハラです。


私は、指導教員との関係性だけでなく、その他の先生方、事務員さんの一部とも関係性が悪く、本当の意味で、学内で孤立しています。学部時代は挨拶を返してくれていた先生が、今となっては、挨拶をしてもあからさまに無視してくるのって何なんですかね。私は、いたって普通に、アカハラありきの院生生活を送っているだけです。そもそもほとんど口を聞いていません。だからこそ、悪態をついたから(無礼を働いたから)無視されているとは言い難いのです。


一部の(最初は)信頼できる(と思い込んでいた)複数の先生に、指導教員のアカハラの実態を相談したところで、「あなたの思い違いだ」「研究指導の文脈でならば、何を言われても不問だ」「あの人なりの指導だよ」としか言われず、指導教員を庇い、指導教員の指導に対応できない私を非難するだけです。


なお、このことは、学内の心理カウンセラーの人にも相談しました。しかし、言われたのは、「あなたにも非がある」ということでした。それは、セカンドハラスメントだと思います。私の行動の何が悪かったのかと聞けば、答えられないで、タイミングだとか運だとかそんなしょうもない要素をあげてくるカウンセラーでした。(ちなみに、この心理カウンセラーは、最初こそ、きちんと相談に乗ってくれる人でした。しかし、私の経歴、とりわけ、出身校を特定されてしまったときから、態度が一変しました。)


解決しようのない問題

自分には、研究を遂行して、(人に認められるかどうかわからないけれども、一定の)成果を出す能力があると信じてやまないし、博士号を取得して、その分野で人に物を教える立場になりたいと思っているからこそ、こんな環境でダメになる自分が情けなくてたまりません。

どんなに自分で努力(専門分野の知識や、外国語文献の読解、論文構成について学ぶこと)しても、人から教わることができる、あるいは、救ってもらえる人たちには、追いつけません。ましてや、偉い人たちに溺愛されている人たちには、人生を何周しても追いつけません。
今の自分は、手で崖をつかんでいて、この手を離したら落ちて死ぬだけ、という状態にあるなかで、崖の上にいるひとたちに私の手を踏みつけられているような状況にいると感じています。


人から救いの手を差し出してもらえること、これもまた、一つの能力です。私には、この能力が絶望的に無いようです(ちなみに、父にもこのような能力はないようで、かなり苦労しているのをずっとみていました)。


今ここにある「異常な」コミュニティ

誰からも助けてもらえないこと(あるいは、助けてくれなくても良いから、「尊厳のある人間」として扱ってもらえないこと)の原因は、私の肥大した自尊心、強すぎる自己愛のせいかと思いましたが、そうでも無いようです。なぜなら、私が今いる大学院の先生、ひいては、私が専攻している学問のコミュニティに所属する研究者たちは皆、承認欲求の塊であり、異常なほどまでに、他者を蔑み、相対的に自分が優れていることを主張する人たちだからです。そのくせ、自己肯定感の低さを嘘でも見せ、さらなる承認を引き出そうとするタチの悪い奴らです。相手を悪者にし、自分を正当化することだけは、世界一です。このことは、当該コミュニティに所属していない人たちから、広く「気持ち悪い」と批判されています。

教員同士でも、このようなくだらない「貶し合い」をしているのをよく見かけますから(例えば、授業で教わっている先生から、「○○先生は、博士号を持っていないくせに教授だって~w自分は、持っているから教授で良いけどさぁw」と言われたときには、さすがにあきれました。返事もできませんでした)、本当にろくでもないコミュニティだと思います。


ちなみに、実際にこのような態度をとっていて、歳ととともにそれは悪いことだと悟り、改めたと主張する先生にあったことがあります。実際に、そのようなことをしている理由として、「プライドが許さないから」だそうです。くだらねぇ。
とはいえ、私からすれば、その先生は、何も変わっていませんがね・・・。


「異常な」コミュニティから追い出されつつある今

今の私は、弊学の修士課程に所属する大学院生として、そのコミュニティからじわじわと追い出されつつあります。会社における「追い出し」と似たようなことをされていると感じています。

大学院のなかでは、「指導教員のことをわるくいう、自己主張がつよく傲慢な、むかつく院生」として、腫れ物扱いされているわけで、そこでの居心地は、非常に悪いです。

私は、この「居心地の悪さ」を感じている以上、もはやその大学院、ひいては、専攻している学問コミュニティを出て行くべきなのでしょう。
もちろん、出て行きたいですよ!普通なら、「ええい、やめてやらぁ」と、出て行きますよ(既に、一度『中退する』と指導教員に伝えましたが、全力で止められました。アカハラの告発をして中退をされるのを恐れたのでしょう)!
しかし、それをしてしまっては、「私を追い出したい」一心で団結している大学院の教員たちの思うつぼなのです。それがとにかく許せません。弊学が潰れるとか(Fランなので、潰れて当然だと思いますが)、そのコミュニティがさらに腐敗するといった結果を見なくては、気が済みません(腐敗したところで、「世襲」だから、そのコミュニティがなくなることはないんですけどね・・・。現に、弊学に新しく赴任してきた先生は、前年度に退職した先生の3親等内の親族だった)。


他大学院に移って研究を続けるというのがもっとも現実的な策なのでしょうが、私が所属している学問コミュニティは、非常に狭く、閉鎖的で、昔の日本社会(年功序列、師弟関係、世襲)と変わらない、もはや「腐敗した」ものとなっています。政治の世界と変わりません。だからこそ、私をよく思わないひとたちによって、私の進路は、邪魔されることでしょう。私の指導教員がかつて担当していた院生は、他大学院の博士課程に進学しましたが、そこでその院生がついた先生は、指導教員と関係の強い人物でした。結局のところ、指導教員をはじめとする、私をよく思わない人の手の及ばない場所など、国内にはないのです。
また、仮に、他大学院に移ったとしても、また同じ理由で、今と同じように、私は煙たがられることでしょう。そもそもその学問コミュニティ自体が腐っているのですから。私が大学院で研究を続けるためには、そのコミュニティに愛されるような人物に変わらなければならないのです。


「異常な」コミュニティに適合できる人物になれるかどうかが鍵

あちらこちらで、大学院の先生たちと仲良くやっている院生をよく見かけます。そのような院生たちは、なにかしらの役職が与えられたり、推薦型の学会や雑誌論文に招待されたり、学校の顔としてちやほやされたりしています。もちろん、その院生の中には、研究実績が豊富な人もいますが、まったくもって研究実績のない人もいます。これをみると、個人的に、研究実績の数よりも、そのコミュニティに適合できる、教員たちが「居心地の良さ」を感じられる人物であることの方が大事であるとすら感じています。

そのような院生たちと、私とで、何が違うのかを考えてみたのですが、それは、価値観だと思います。すなわち、研究に対する考え方や、人への指導のありかた、人の育て方などに対する考え方といったものです。
このようにいうと批判されて当然でしょうが、私が出会う大学院での人たち(教員、院生)は、多くが選民思想のようなものをもっていると思います。すなわち、研究という崇高なことをしている、他の人たちにはできないことをやっている、だからこそ、自分は、他の「一般人」たちよりも偉く、職業のヒエラルキー(そんなものはないはず)のトップに立っており、何をしてもいい存在だ、といったような特権・エリート意識が強いなと思っています。私自身は、そのように思ったことはなく、かなり違和感があります。また、ハラスメントに対しても、する方が悪いのではなく、される方が悪いという態度をとっている人がほとんどです。私は、全く以て同意できません。ちなみに、今起きているロシアのウクライナ侵攻についても、「ウクライナのさぁ、面白いよね」といった先生がいて、さすがに引きました。面白くない、と言い切ってしまいましたが・・・。

その他の点についても、私と研究者たちとでは、価値観が180度違い、私は、宇宙人なのかな?とすら感じています。私が意見を言うと、まわりが「?」という顔をして、シーンとなることばかりです。そして、話もかみ合いません。

私は、なにをどう頑張っても、このコミュニティには適合できなさそうだと感じています。正反対の、コアとなる価値観(個人の尊厳、生命、平和などに関するもの)を、この年にして身につけることはできないからです。この点をもって、大学院の(最初は信頼できると思い込んでいた)先生たちに、「私、研究向いてないですよね~」と言ったら、全員にニコッとされました。そういうことですよね。


合わない環境から勇気をもって出て行けるように・・・

価値観が合わない、周りの人たちから完全無視される、居心地が悪い、ついでに、この1年でどんどん体調が悪くなってきている・・・そんな環境は、私に『そこから出て行くべきだ、あなたのいる場所ではない』というサインを発しているのでしょう。

いい加減、悟れるようになりたいです。
私には、ここには居場所がないのだと。

追い出されるようにして出て行くことが、悔しくてたまりません。敗走ですかね。てか、修士課程でここまでされるって珍しくないですか?
全くもって、心の整理ができません。
こうやってまた、冒頭の2つの気持ち(怒りと悔しさ)に逆戻りして、ぐるぐるしています。

中退すれば、あるいは、博士課程進学を諦めれば、指導教員をはじめとする私のことが嫌いな人たちが、「ざまぁ」と喜ぶでしょう。
博士課程に進学すれば、いじめる材料ができたと(コミュニティ全体で)喜ぶでしょう。
どちらの選択肢をとっても、そいつらが喜ぶことでしょう。

大学院に残れて、うまくやれる人がうらやましいです。
私にとっては、「修士」なんて中途半端で・・・(「修士」でも立派だよ、という考え方もあると思いますが、そのように言ってくれる人は、神様かなにかですね・・・)。

まぁ、私のような人間は、淘汰されるしかないのでしょう。
自然の摂理ですかね。


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