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映画「怪物」のイライラ分析

げんきポイント削り度 … -40%

「げんきポイント削り度」とは、十分に睡眠をとって朝ごはんを食べ終わった時のげんきポイントを100%としたとき、どれくらいげんきを消耗するかの度合いです。目安として、ダンサー・イン・ザ・ダークが-90%、見終わった後でむしろ元気がでるロッキーを+50%とします。

元気を貯めてから見に行った

是枝監督の映画はちょっとしたシーンにもリアリティがありひきこまれる。そしてだいたい身につまされるような話になっている。ゆえに見終わった後に元気がプラスになるということはまずない。
話題作ということでがんばって見ることにしたが、インフルエンザの予防接種がある日の登校のようなテンションで映画館に足を運んだ。
げんきポイントを70%ぐらいは削られる覚悟で行ったが、それほどではなかったので今はホッとしている。

人間に豚の脳を移植したらそれは何者か

予告編でもフィーチャーされているが、人間に豚の脳を移植したらそれは人間なのか豚なのかという話が出てくる。
これが全編を通してのテーマのように思えた。
人間に豚の脳を移植したものは、果たして「人間」か「豚」か。
これに対する答えは「豚の脳を移植した人間」に他ならない。

新しい形がうまれたのであるから、そもそも人間か豚かに分類する必要はないのである。その状態をあるがままに受け止められるかどうか。明白な線引きをしてカテゴライズするのではなく、無段階変速ギアのようななめらかなグラデーションで受け入れられるかどうかを問いたいのだろうと思う。
しかしこの映画ではその答えには辿り着かない。
先入観、決めつけ、視野狭窄、切り取り報道、コミュニケーション断絶、そういったものを見せたい映画になっているようだ。

話せばわかりそうだけど

ひとつの出来事をそれぞれの視点から描いていく方式の映画である。
それぞれの視点からみた情報は全体から見るとあまりに断片的であり、また紋切り型の先入観もあいまって、事件の解釈は真実からは程遠いものになる。それがすれ違いを産み、分かり合えない悲劇のようなものとなり積み重なってゆく。
ゆっくり話せばすべての誤解は解けうる。しかし劇中では誤解を解くために話すチャンスがことごとく潰され、それが現実社会の悲しさのように描かれている。母親には相談できる友人や親戚がいなさそうだし、主人公もまた母親の期待もあり、話せる人がいなさそうである。たしかにリアリティはある。
いろいろな細かい事情をゆっくりと話して共有するような時間は、この映画の世界にかぎらず、少ないかもしれない。

LGBTQ…の罠

ニュースで報道されるようなLGBTQ…の考え方に個人的に強い違和感を感じている。
この問題の解決は、世の中にはいろいろな人がいるもんだというダイバーシティを、ボーダレスに、あるがままに受け入れることにあると思う。
しかし、世の中の動きはなぜか真逆だ。あいまいな状態は許されず、性的にどのタイプかを厳密に分類するようなムーブメントになっているように見える。
そして、このムーブメントは被害者を生む。
それはたとえばこの映画で描かれる主人公のようなで人である。
主人公は中盤まで、妙に惹かれる男友達がいる、という程度の状態として描写されている。
そのあいまいな状態を保ったまま、性的なグレーゾーンに身を置きながら人生を歩みつづけるという権利が彼にはある。
しかし残酷なことに、その友人はそれを見逃してはくれなかった。
友人は主人公が"こちら側"の人間であると線引きし、引きづり込んだ。
もちろん脚本家も監督もこの価値観の共犯者であり、主人公が曖昧な形で存在することを許さなかったのだ。
自分の身の回りにもこの価値観の被害者がいて、とても他人事ではない。

ラストでなんで…

母と先生が秘密基地に到着するタイミングと、嵐であることと晴れることの時系列から、ラストは死後の世界としか解釈できない。
未来の行き止まりを暗喩するような柵がなくなっていたことからも、柵のない天国へと、生き返ることなく(=気持ちが変わることなく)移り住んだということだろう。
心中ブームの江戸時代じゃあるまいし、昭和ならまだしもスマホでライブ配信ができる時代であればほぼ現代である。閉塞感から死を選ぶとか、実話がベースであるがゆえの事故死ということであるならばまだ納得できるが、作者側の匙加減一つで決められる事故というファクターで主人公たちを死なせていることの真意はぜひ聞きたい。

他に気になって集中できなかったところ

安藤サクラの演技はさすがで、先入観視点にしっかりライドできた。
しかし気になったのは瑛太の扱い。あのサイコっぽい演技はなんだったのか。そのミスリードから鑑賞者が得られるものは特にないはずだ。
あと東京03角田。いるだけでもうコントっぽいので、日曜劇場ならピッタリだけどリアル路線のこの映画ではかなり浮いていた印象だ。
他に面白かったのは中村獅童の虐待パパ。映画で描かれた部分だけからみるとこの一人だけが明白な悪人で、事情が描かれない分救いもなく、しかも泥酔して雨の中で転がってコントみたいなキャラになっていた。

教訓

とにかくコミュニケーションの量を増やすこと。可能であれば事情をゆっくり聞くこと。何も問題がなかったとしても話すこと。それが現代社会にはけっこう大事だ。
安藤さくらと瑛太と田中裕子の飲み会を想像してみる。いろんな誤解が無事に解消されそうな気がするが楽観的すぎるだろうか。角田がいてもよいかもしれない。ただ、一番頭が硬そうな中村獅童については別日に改めて席を設けるのが良さそうな気はする。






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