見出し画像

アスペはアスペらしく。だって脳のリソースは有限だから

〈題『思春期』〉

アスペ(ASD)にとっての永遠の課題。
「擬態」。

確かに、アスペ丸出しで生きていくのは難しい。ソレをやろうとするとどうしても365日24時間にわたって定型発達と敵対するハメになるからだ。

だからアスペは自分のために、そして他人のために必死に擬態に駆られる。

勿論これはある程度は正しい。やっぱりアスペ100%剥き出しで生きていくことは、却って我が身を不幸にする(過剰に定型発達から敵視されると生きていけなくなるため)。

ただ勿論あくまで「ある程度」だし、そしてその「ある程度」は限りなくゼロに近くあるべきだと僕は思う。

なぜかというと、脳のリソースは有限だから。




ここ最近(半年ぐらいかな?)の僕は必死に定型発達に擬態しようとしてきた(それには性愛も含む)。

それはある程度は成功してきたものの、一方でそれと引き換えに凄まじい心身の疲労を僕に与え続けてきた。

しかも結局アスペがいくら必死に擬態しようとしてもそれは「必死に定型発達のフリをしようとしているアスペ」に過ぎず「定型発達」ではないし、実のところ「定型発達に上手く擬態できているアスペ」でもないのだ(無論各人のアスペ度合いによってこの辺は変わってくるが)。

時々必死に擬態に励む「同類」とリアルで遭遇する事があるが、彼ら彼女らを観察するとやっぱり独特の違和感や緊張感がある。
彼ら彼女らを見ると「あぁ…僕も客観的にはあんな感じなんだろうな…」と落胆してしまう。
実際、我が身を振り返ると僕もどれだけストレスフルに擬態に励んだ所で「なんか挙動不審で気持ち悪いオッサン」にしかなっていないなという自覚がある。




この際に一層と問題なのは、定型発達に擬態しようとすればするほどに定型発達への(叶わぬ)憧憬が肥大していく事だ。それに付随して自己否定感情も肥大していくことだ。

必死に擬態しようとするのに定型発達には結局なれない苦痛。
擬態に奔れば奔るだけ定型発達になりたいという願望が増していき、なのにそれが叶わない苦痛。
しっかり定型発達に擬態できない自分への否定感。
そして生まれながらの定型発達は努力などせずとも定型発達で在り続けるという、圧倒的不平等・理不尽。




これらを加味していくと(アスペに限らずあらゆるマイノリティにおいて)結局重要なのは、「自己肯定」「自己受容」なのではないかと僕は思う。

だっていくら定型発達に擬態しても定型発達になれないんだもん。
だったら擬態の労力そのものが全くの無駄じゃない?

それならもういっそアスペの自分を肯定して、(人生が破綻しない最低限の範囲で)アスペ丸出しで生きていった方がよくない?




とりわけ最近の僕がこれを痛感するのが、(ビジネス)ホテルの客室清掃のバイトをしている時だ。

僕は今ホテルの客室清掃のバイトをしている。
同業ならご存じだと思うのだけど、この仕事は物凄くスピードと正確性を要求される仕事だ(たかだバイトなのにやたらハード)。
この仕事では脳のリソースを最大限に活用する事はとても大切だ。脳をフルに使わないとノルマを達成できないし、作業ミスも多発する。

そんな脳を極限まで使わないといけないバイトをしていて実感するのだけど、僕は(同僚との雑談・業務連絡などの際に)アスペを隠そうとしながら客室清掃をしていると、露骨にパフォーマンスが低下する。
これは恐らく同僚との人間関係に際してアスペっぽい言動を隠そうとする事(擬態)に脳や心のリソースの大半を費やしてしまい、肝心の客室清掃に脳や心のリソースが割けなくなっているためだと思う。

一方で、「ノルマもあるし業務に集中しよう。もうアスペっぽい言動駄々洩れでいいわ。」と開きなおって作業をしていると、(同僚に対して無口・無表情になってしまうのと引き換えに)脳のリソースが解放されるためか心身がリラックスし、作業スピードが露骨に増すのである。


体感だと擬態をしながら仕事していると全力の20%ぐらいしか出せない感じだ。
でも擬態をやめて仕事に集中すると、アスペ感が駄々洩れになるのと引き換えにしっかり100%の力を発揮できる。


確かに人間関係は大事かもしれないけれど、果たして擬態に生命力の8割も消費してしまう生き方は幸せだろうか?
擬態にそれだけの価値はあるだろうか?
上述のように、擬態してもどうせ定型発達にはなれないという点も思い出してほしい。

そこを考えると、もういっそ擬態はやめて、その分の脳のリソースを解放したほうがいいような気がするのだ。

あくまでも大切なのは仕事をこなす(それでお金を稼ぐ)事なのだし、職場や外界(有人レジでのやりとりとか)の人間関係にビクビクして擬態に脳力の8割を消耗するぐらいなら、人間関係はあきらめて仕事に集中した方が合理的だと思う。


加えて思うのが、必死に擬態しようとしているアスペって独特な気持ち悪さがあるし、個人的には擬態せずにアスペ丸出しな方がいっそ「そういう人」として扱ってもらえるような気がする。
「あの人はちょっと変な人だけどまぁ悪い人じゃないから…」「仕事はちゃんとするから…」と同僚からちょっと距離を置かれつつも放置してもらえる実感がある。




この半年ほど、僕は必死に擬態に励んで必死に他者に興味を持とうとした。でもどうしても他者に(定型発達のように)興味を持つことができないし、無理して雑談とかしようとしても「アスペが無理して会話しようとしてる時特有の気持ち悪さ」しか出ないし、じゃあもう擬態とか無駄なんじゃないかなって思う。

お互いのためにならない。

勿論僕当人も辛いし、アスペが無理して必死に話しかけてきたら定型発達だって対処に困ると思う。

発達障害云々の書籍を読むと未だに僕らマイノリティへの治療法は「擬態を覚えさせて社会に“適応”させる」事が最優先らしいのだけど、当事者の僕から言わせるとああいうのって当事者じゃない定型発達のお医者さんが考えた机上の空論って気がするな。

やっぱり無理だよ。擬態なんて。

擬態にエネルギーを費やすんじゃなくて、その分のエネルギーを他の生産的な事に費やした方が結果的には定型発達のためにもなると思う。
個人的には擬態に費やすエネルギーは全体の3パーセント以内でいいんじゃないかな。