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夕方を取り返せ。

中原中也の詩にこんな一節がある。

ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。

中原中也「山羊の歌」より「いのちの声」の一節

記憶力も、記憶しようとする根気も人並み以下で、詩を諳んじるなどできたためしがない。しかし中也のこの一節だけは、ふとした時に蘇っては頭の中で何度も繰り返される。頭の中でこの一節を唱える、これは誰の声か。自分の声か? 中也の声か? それとも誰のものでもない声なのか。声は反響し増幅し、この頭の中には収まりきらなくなる。声は出口を探し求め、さいごにはこの口から漏れ出る。「ゆうがた そらのしたで みいってんにかんじられれば ばんじにおいてもんくはないのだ」。

夕方が奪われている。日が暮れるまでの三十分、少し外に出て、影の深くなってゆく町を歩く自由はない。窓の外の明るさの変化を横目で確認するくらいはできても、日が天頂にあるときと変わらず、Excelに数字を打ち込んだりオンライン会議の罅割れた音声に耳をすませたりしている。もはや世の多くの人々、特にデスクワーカーにとって夕方は昼と同義だ。夕方は存在しない。

物心ついたときから、夕方は特別な時間だった。十代後半には、町の外れにある高台から夕焼けを見ることがその日を生きる理由にすらなっていた。橙、紫、藍へ刻々変化する空と、影に没してゆく木々や人家のただなかに立っていられれば、万事に於いて文句はなかったのだ。
大学を卒業し、夕方がなくなった。はじめ、夕方がなくとも夜の享楽があった。それなりに楽しかったのだ。そうして昼と夜は分離し、境界面がなくなった。それがいかに危険なことであるか、気づくのにそう時間はかからなかった。

夕方は、昼から夜へ移るために渡されているただひとつの橋で、昼と夜を分かちながら、かつ結びつけている。夕方は昼を終わらせる。夕方は昼の活力や種々の判断、喜びや苦悩、疲労や充実をその曖昧な闇の中に溶きあわせる。すべてが一度、この時間に無為に帰す。なにものからも意味を剥ぎ取り、ただ世界のみが現れる。夕方、空の下に立つ人は狂気の縁にいる。皆忘れているが、本当は誰もが狂気に触れることができてしまうのだ。きっとそのために、社会は人々から夕方を奪った。

明大前の夕方。

夕方を経て、人は無条件に優しくなれる。無為と狂気とにその身を曝すからだ。そうしておとづれる夜には、証券アナリストは画家でもあり、経理担当者は詩人でもあるはずだ。

夕方を取り返さなければいけない。

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